2019年8月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
無料ブログはココログ

心と体

2019年6月16日 (日)

「モンスター老人」世に憚る?

 少子高齢化の度が過ぎると、我儘や自己中の老人たちが世の中を埋め尽くす懸念がある。日本では令和元年度の今年、65歳以上の高齢者が全人口の3割を超えてしまった。その総数は約3700万人。世界でトップクラスの長寿国だ。
 現代の日本はお年寄りたちで溢れかえっている。健康志向で長寿は良いことだが、一方では、年金不足問題や高齢者ドライバーの暴走運転などが大きな社会問題になっている。加えて近年の「老害」という不遜な言葉が登場したように、公司を弁えない老人によるあるまじき異常行動や自分勝手すぎる迷惑行為の数々に振り回されているのも紛れもない事実だ。
 いつからこんな世の中になってしまったのか?本来は人生の大先輩として、手本にしなければならない存在なのに、いつしか煙たがられる厄介者扱いになりつつある。これは決して他人事として片づけることが出来ない。
 何を隠そう
私自身も、あと10年少しで、その年齢に達するため、そうした老人にはなるまいとの自律を促す意味で、今回の記事をあえて掲載したい。
 まずは、昨今、ニュースや新聞報道で深刻な問題になっている高齢者の事件や事故を取り上げたい。
 
 高齢ドライバーの暴走運転まとめ

 ある日、生命と、その後の人生を突然に立たれた被害者や遺族の無念は計り知れない。アクセルとブレーキを踏み間違えたなどの運転操作ミスでは絶対に片づけられない重大案件だ。金では絶対に解決できない。
 行政やら政府が対策に本腰を入れない限り、こうした悲劇はこれからも繰り返し起きる。「自分は大丈夫」などと高を喰って運転を継続し、「免許返納」を意にかえさない油断な発想こそが命取りで、こういう輩に限って死亡事故を起こす。そして事故を起こしてから我に返り後悔することになる。

 高齢者による迷惑行為集

 他人の粗が見え、つい文句をつけたくなるのは、心にゆとりがなく、余裕がないからだ。自分のことは差し置いて他人の行動にいちいち口を挟むのは歳をとった証拠で、若い人から見れば、単なるクレーマーでしかない。かつて「頑固じじい」というおじいさんがいたが、それとは趣が違う。自分の居場所がないとストレスが溜まり、怒りや不満が外に向けられる。 

 一体全体、こうした原因はどこにあるのか?私なりの持論を申し述べたい。

 1 仕事を引退したことの弊害

 職場に所属し、そうした制約の中で仕事に励み、ある程度ストレスを溜め込んで長らく 生活してきた。それが退職し、時間を持て余して一日中家に閉じこもるとろくなことが起きない。自分の殻に閉じこもり、他の意見を聞き入れる機会が減ると、どうしても自己中心的な考え方となり、周囲の粗ばかりを突っつきたくなる。他人のミスを許せず、テレビ局や新聞に投稿し、それが聞き入れられると、得意満面になって、さも自分が正義であるかのように振る舞い、自分の考えを押し付けるようになる。まるで自分こそが地域社会のルールブックであるかのように、横柄な態度に転じる年寄もいる。若い者の意見には耳を貸さず、自分こそが正しいと思い込み、何振り構わぬぞんざいな行動をしがちになる。
 現役をリタイアした老人は、当たり前だが
収入が減り、細々した生活を強いられていることへの不満の蓄積もある。現役時代は当たり前のように出来ていた消費活動ができなくなり、フラストレーションが募り、それが外部に向けられると、威圧的かつ暴力的になる。  
 これを解消するためには、余計なことを考えさせないために、65歳以上も「生涯現役」を推進しなければならないだろう。自宅に引きこもっていると不健康だし、外部との接触が減ると、人間は自己中に陥り、よからぬことを考えがちだ。周囲との人間関係を維持したり、継続することで所属感が得られ、犯罪に走る機会を未然に摘み取ることもできる。

 2 体の融通が利かなくなると、鬱憤が溜り、周囲に当たり散らす

 よく役場や病院の窓口で大声で「いつまで待たせるんだ」と怒鳴っているおじいさんがいるが、あれは自分こそが正しいと思い込んでいる証拠。世の中が自分中心に動いていると錯覚している。
 人間、加齢とともに徐々に体の自由が利かなくなってくるが、頭の中では常に「自分は若い」と思い込んでいる。これこそが自己の元凶で、事故を起こした当人は、まさか自分が重大事故を起こすなど夢にも思わなかったに違いない。
 人間は、体が不自由だと多方面で不満を蓄積する。年寄は自分より年下に横柄な言動や態度に表れがちで、それがひんしゅくを買う要因となる。
 私の祖父が癌になった時、末期状態にはその苦痛がゆえに、人が変わったように暴言や放言を繰り返した。それまでは物言わぬ穏やかな性格で、誰からも好かれる人柄だった。まるで麻薬中毒者のように、目つきが鋭くなり、看護師に「家に帰せ」とか体中に取り付けられた医療器具を外せとか大きな声で喚き散らすほどだった。
 その数か月後に、亡くなったが、死期迫ったその数か月の印象が強すぎて、険しい表情の祖父が目に焼き付いてしまい、穏やかで優しかった頃の面影は消え失せてしまった。
  

 3 自分は若いと錯覚し油断して暴走運転で他人に危害を加える老人

 免許返納が増加の一途を辿っている。その要因は、ここ数年来続発している高齢ドライバーによる暴走運転や逆走、運転操作のミスによる大事故にある。自分は大丈夫だと対岸の火事状態の概念の者に限って、感覚が鈍くなっている。自分の反射神経や身体能力の衰え、思考力、とっさの判断能力が若いまま変わっていないと思い込んでいる。そういう輩に限って事故率は高くなる。
 家族に免許返納を勧められているのに、「年寄扱いして」と周囲の意見を聞かずに運転を継続するドライバーは愚の骨頂だ。人を殺めてから後悔するのでは遅いのだ。
 しかし、他方では行政もよくない。実際は免許の更新は認知症の検査でしか判断されていない。だから、認知症検査で異常がなければ、自分は運転に問題がないと自意識過剰になり、従来通り、ハンドルを握りがちだ。
 私などは、80歳を越えて車を運転することなど、もはや自殺行為だと思う。運転中は通常の精神状態では務まらない。絶えず周囲に気を配り、危険回避のために思考力を総動員しなければならない。車は凶器になりえることを肝に銘じておけば、迂闊にハンドルに手が伸びることはない。公共の交通手段で事足りるのに、わざわざ車を選ぶ必要性はなくなる。
  
 4 なぜ普通車の運転免許取得は18歳以上なのに、上限はないのか

 個人的にはこの行政がそもそもの過ちだと思う。確かに、高齢者であっても個人差がある。脳の衰えが早い人と、80歳を越えても60歳未満の脳組織を保有している方もいるだろう。一緒くたにはできないが、一律で80歳を過ぎれば免許返納を義務化すべきだと考える。本音では75歳以上でもいくらいだ。
 お年寄りは体の自由が利かなくなり、他の
交通機関が選べない地域では、移動手段はもっぱら車しかない。だから買い物や通院、日常の用事を済ませる際には、どうしても移動手段を車に依存せざるを得ない。バスや電車などの交通手段がなければ、移動が楽な車を選択してしまう。社会の構造を改革する必要がありそうだ。
 お年寄りが運転操作ミスなどが原因で幼い子供の命を奪う大事故が頻繁に起きている現状では、抜本的ではなく、根本的な対策が必要で、不満や反対意見が出ようが、やはり、一定年齢以上に達したら、運転をさせない社会の枠組みを形成しなければならないだろう。
  
 5 迷惑老人と言われないために

 いつから高齢者を「迷惑じじぃ」とか「老害」などと呼ぶようになったのだろう。高齢者は、長年仕事に励み、経済を下支えして来た功労者であり、人生の大先輩である。リタイア後の第二の人生を謳歌してほしいし、自分も平穏な日々を過ごしたいと願っているに相違ない。そのためには、大前提となるのは他人に迷惑をかけないことだ。お年寄りは、仕事をしていない分、時間が十二分にある。言うなれば「毎日サンデー」だ。問題は、それをどう使うかだ。現役時代に時間がとれずにできなかった趣味の時間に充てるのはどうだろう。金をかけずに楽しめる趣味はごまんとある。ジョギング、水彩画、写真、家庭菜園などの園芸、陶芸、書道、釣り、ヨガ、スイミング、囲碁、将棋、童心に帰ってプラモデル作りなど。心が休まる環境にいれば、自ずと自分の居場所が見つかり、穏やかな日常を過ごせるはずだ。それに共通の趣味を持つことで、類は友を呼ぶではないが自然と仲間が増えるに違いない。

 周囲の粗を探せばきりがない。人生の先輩として、若い人たちに意見を言いたい気持ちはよくわかる。しかし、それを許せる広い心を持ち合わせてほしい。「自分の若い頃はこうだった」と物申したい気持ちはわかるが、時代は変わり、価値観や若い人のライフスタイルも大きく変わっているのだ。目くじらを立てずに行く末を見守って欲しいものだ。

 最後に、お年寄は長年日本や地域を支えてきた自負もあるだろうし、個人的には敬い、いたわる存在だと思っている。それだけに、一部のお年寄りの悪徳行為が、すべてのお年寄りのイメージダウンにつながるようなことだけは避けてほしい。
  自分の体力の限界を知り、年相応の振る舞いを行い、老若男女が共存し、繁栄できる社会の基盤を再構成していくことが何より肝要だと思う。

2019年5月31日 (金)

少年のこころ

 あなたの心は薄汚れていないでしょうか?幼い頃の純粋な気持ちを忘れていませんか?人というのは不思議なもので、子どもの頃に思い描いた夢や希望を、年齢を重ねるうちに、現実の壁にぶつかり、それは実現が難しいとか、やっても無駄だとか、次第に諦めてしまう。もし今、20歳の人は、10年前の頃の自分に、「今も夢を追いかけているよ」と胸を張って言えるだろうか?小学生の卒業文集に将来の夢を書くことはよくあることだが、その夢をずっと変わらずに追い続けている人はどれくらいいるのだろう。自分の都合のいい言い訳で、いつの間にかその夢を口にするのも憚っている自分に気づいていないか?そして見て見ぬふりをしてはいないだろうか?

 私は小学生の頃、将来の夢は「ジャイアンツに入って活躍すること」と文集に書き綴った。しかも「僕が入団するまで巨人軍は解散していないか」などとオチまでつけて・・・。あれから何年が経ったのだろう?野球を捨て、今は全く違う職業に就いて、早30年が過ぎ去った。もしタイムマシンがあっても、自分は過去に戻って、あの頃の自分に顔向けできないと恥じている。頑張ってチャレンジを続けた末に諦めたのなら、少しは許して貰えそうだが、努力もしないで自分の力量に見切りをつけ、夢を別の夢にすり替えて今日まで生きて来た。少年の頃の自分に申し訳ない。

 人間は、さまざまな人と出逢い、いろんな体験を積む中で、「できること」と「できないこと」をすみ分けしてしまい、端から頑張って実現するという気持ちを年齢と共に削っているように思う。
 次の動画をあなたがどう見るかで、それを証明できると思う。

 いかがですか?4回トライしても跳び箱が跳べずにいた男の子が泣きべそかきながら、それでもあきらめないで挑戦を続ける。そして、お友達のエール(激励)を受け、5回目のチャレンジで見事、跳び箱が跳べた。失敗を繰り返しても頑張っていれば、いつかは成功にたどり着けるということを男の子が自ら範を示してくれたと私自身は純粋に感じ取った。

 しかし、世の中には、薄汚れた心の持ち主がいて、何にでもケチをつけたり、上から目線で偉そうに物言う人間がいる。この感動的な動画を見ても素直に受け取れず、「本当は初めから跳べるのに、わざと演技して跳べないように見せている」とか、「観客を感動させるために、このような芝居じみた演出をした」と批判的なコメントを書いた者もいた。どれだけ心が穢れているのだろうか?疑いの気持ちを持つこと自体、人として情けないと思う。

 私はこのような感想を抱く人は、心がすさんでいるし、貧しい証拠だと思っている、可哀想なおいたちだったのだろうとお察ししたい。子どもの頃に、必死で頑張ったことを馬鹿ばかしいと思ったり、やっても無駄だとやる前から諦めてしまう人は、頑張ることもできないし、頑張っている人を応援することすらできない人だ。明らかに心が歪んでいる。

  そしてこの少年には頑張ってどうしても跳び箱を跳びたい理由があった。この背景を知ると、もう涙せずにはいられない。

  ①この子は卒園式間近で引越しのため卒園式当日出席出来なくなってしまった。
  ②この日は跳び箱飛びの発表会だが、この子の早めの卒園式を兼ねている。
  ③この子のお母さんは療養中で出席出来ていない。

 ---- だからこそこの子は、別れる友達や病気と闘っているお母さんのためにも、頑張れば必ず報われるということを証明したかった。

  では「奇跡の跳び箱」と題されたテレビ番組の一部始終をご覧ください。

 

 一生一度なら、感動できるものに対して、ありのままに素直に涙したり、優しい眼差しで見守れるような大人でいたいものだ。