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2021年1月16日 (土)

北海道の想い出話

 旧ブログでも何度もこの話題は書いたことがありますが、旧ブログをお読みいただいていない方に、僭越ながら私が北海道に住んでいた頃の話をしたいと思います。

 私が北海道に住んでいたのは1984年4月から1986年2月末までの約2年だった。3月には東京都世田谷区の三軒茶屋に引っ越したのだが、私にとっては、大半の人が経験できないであろう北海道暮らしのほうが印象が濃いし、想い出に残っている。ではいくつかのエピソードを紹介したい。

 1 バイクでツーリングし、紀行文にまとめた話

 北海道に行くことが決まって、その春先、かつて郡山のイトーヨーカドーの西隣りにあった教習所に通い、僅か10日間で自動二輪の中型免許を取得した。普通免許を先に取得していたので、北海道に行くからにはバイクに乗りたいと思ったのだ。高校時代はまさか自分がバイクでツーリングしたいと思ったことがなかったので、青天の霹靂だった。
 バイクはアルバイトして貯めたお金で、7月に購入した。当時は、スポーツタイプ系の大変なクオーターブームがあって、車検がなく、比較的維持費も安い250ccが重宝され、人気があった。それを地元のバイク屋で中古で見つけ、それを即買いした。ミーハーバイクとして有名だった初代VT250Fというバイクで、カラーはブラック。ミニカウルが付いたスポーティーなデザインに加え、水冷Vツインと呼ばれる4ストの2気筒バイクだった。
 当時は、2ストのヤマハのRZ250やスズキのガンマ(γ)、ホンダNSR、カワサキのKRなどが流行った。

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 実際にバイクを北海道に持って行ったのは8月下旬からだった。国道4号線を4時間近くかかって仙台港まで走り、道に迷い、出港時間ギリギリでフェリーに乗船したことを覚えている。そして16時間以上も乗船し、船酔い状態でたどり着いた苫小牧港からR123を北上し、アパートに辿り着いた。

 実際のツーリングは寒くなって来る9月からだった。それから次年の8月上旬まで、10月下旬から3月までは物置に眠らせてもらったが、1年目は同郷の友達2人と9月に道南(積丹~函館・登別周辺)や10月に道東(サロマ湖・網走・知床・根室・屈斜路湖・摩周湖・阿寒湖・足寄・幸福駅など)を周った。2年目は憧れのソロツーリング(ひとり旅)を敢行した。4月~8月初旬の間に時間を惜しんで北海道じゅうを旅してまわった。居住地が北海道の道央にあったためどこに行くにも都合がよく、2~5日もあればどの地方でも楽に往来できた。
 そして、旅から帰った後、ブログも無い時代だったので、どうにかしてこの貴重な経験を形あるものとして残したいと考え、写真入りの紀行文にまとめた。旅の想い出をつぶさに記録し、北海道に2年間の在住で、大学ノート(100ページ)が5冊分にもなった。

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 旅行の詳細について知りたい方は、私のホームページ「僕が北海道にいた頃」をご覧ください。文字のフォントの調整をしてご覧ください。

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 2 スキーをした話

 せっかく北海道に来たからにはスキーのひとつも覚えようと一念発起し、友達と札幌のスキーハウスに出向き、スキーのセットとウェアを買い揃えた。板はマイナーな「DYNASTER」の旧モデル、ビンディングは「ルック」、それに無名メーカーの「ポール」。そしてブーツは色とデザインで選んで大失敗したイタリア製の「テクニカ」。これがえらく重くて初心者には最悪のブーツと化してしまった。ウェアは今思えば超ダサいデザインの「デサント」の上下セパレートタイプ。さらに別売りで「ATOMIC」のスキーの収納カバーを購入した。全部で10万円弱だったと思う。
 しかし、実際にスキーに行ったのはたった一度限り。実にもったいなかった。しかも超マイナーな「萩の山市民スキー場」といい、小学生が初めてスキーをやるような緩やかな斜面と遅すぎるシングルリフトが2基あるだけの狭小スキー場。それでも20歳で初めてスキーを履いた私には悪戦苦闘だった。同郷の友人はスイスイ滑り、福岡県出身の先輩もそれなりに滑り、自分だけがへたくそな初心者という構図で転倒の連続だった。
 それでもいきなりリフトで頂上まで連れていかれ、何度も尻もちをつきながら滑り降りた時には、そう快感があった。

Sgt1311
 
 その後、会津若松市に住んだ平成元年~2年には、年間30回ほどスキー場にいるほど熱中した。専属のコーチに指導を受け、密かにナイターで腕を磨いた。そして念願のスキー1級を取得した。今思えば若気のいたりではないが、寒さが大の苦手な私がよくぞ1シーズン30回もゲレンデ通いを続けたものだと感心する。その頃はバブル期に加え、「私をスキーに連れてって」の上映で、大変なスキーブームとパジェロやサーフ、テレノなどのクロカン車の隆盛に伴い、首都圏からこぞってスキーに繰り出し、常にスキー場は満員御礼状態で、週末はリフト待ち30分はザラだった。
 私も映画の世界観に憧れたし、実際にスキーで一緒になった女子大生と交際するようになり、結婚まで意識した。ウエアやスキー板も何度買い替えたことか知れない。安比高原、蔵王(3回)を始め、県内も猪苗代リゾート、箕輪、猪苗代(ミネロも含む)、ファンタジア、あだたら高原、羽鳥湖、磐梯国際、裏磐梯、猫魔、栗子国際、天元台、グランデコ、アルツというように複数回通った。合計300回は通った筈だ。
 北海道の話題に話を戻すと、せっかく北海道に住んだのに、スキーは後にも先にも1回だけとは実にもったいないことをした。ニセコ、ルスツ、富良野、トマムなどのメジャーなおしゃれなスキー場に行った試しは皆無だった。

 スキーの詳細について知りたい方は、私のホームページ「ゲレンデ冬物語」をご覧ください。

 3 豪雪の話

 私が北海道に住んでいた頃は、今のような地球温暖化の懸念など微塵もなく、冬期間は2年間ともに豪雪に見舞われた。だが、不思議なことに、真冬であっても寒いと感じたことは一度もなく、ひんやりとした冷気に中にいて、体の芯まで冷えるという、感覚では「冷たい」という印象しかなかった。寮のような作りのアパートに住んでいたが、建物内の玄関脇にピンクの公衆電話があって、1月下旬にそれで話をしていたら、玄関の温度計がマイナス15℃だった。まるで冷凍庫の中にいるようで、「しばれる」という感覚が実感できた。
 我がふるさとの郡山は、真冬になると暴風雪になることがあって、雪よりも風で寒いと感じるが、北海道では、道の両側に降り積もった雪の壁が2m以上になるため、それが風除けとなるため、風が弱く、「シ~ン」と静まり返る印象だった。さすがに北海道は、雪への備えは万全で、家の構造も、玄関までは3~4段ほど高くなっているし、玄関は2重になっていて、積雪で入れないということもなかった。
 さらに言えば、屋根も片流れで、玄関側には落ちない造りになっている。しかも部屋は、二重窓になっていて、隙間風をシャットアウトしている。結露も発生しにくかった。水道も凍結しないように水抜きができるような装置がついている。それでも一冬に1~2回は水道を凍らせてしまったが。

 私が住んでいたのは札幌市から40kmほど東に行った札幌のベッドタウンで、当時人口は8万人ほどの都市だった。空知地方にあるこの都市は豪雪地帯として知られ、比較的雪の少ない札幌と比べればその5倍は降雪量が多かった。
 雪で死ぬ思いをしたこともある。500mしか離れていない場所からアパートに帰る際、小川沿いの近道をショートカットして歩いていたら、猛吹雪に見舞われ、あと100mでアパートと言う地点でホワイトアウトで前が見えず、激しブリザードが襲い、呼吸困難に陥り、10分間下を向いて気道確保し、同じ場所で耐え忍び、何とか命からがら帰宅した覚えがある。これこそが北海道の冬の真の姿だと実感した瞬間だった。
 北海道の冬に雪はつきものだが、今世紀に入ってからは地球温暖化で降雪量が当時の半分程度だろうが、私がいた頃は、10月中旬に初雪が降り、そのまま根雪になり、ついに翌春まで解けることはなかった。そんな豪雪地帯に住んでいたことも、今思えば良い想い出だ。

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 今年の岩見沢は暖冬傾向とは裏腹に、過去史上最多の積雪量を記録した。今冬の累積積雪は6mを越えた。除雪が追いつかず、市内は車がすれ違えないほどの雪壁が聳え立ってしまったとのこと。一晩で129㎝も記録した。同じ日、40km西にある札幌市は積雪が7cmだったというから驚きだ。令和元年7月に訪れたばかりだが、その豹変ぶりはあり得ない。

 4 冬の旅

 バイクに乗れない冬の旅の想い出は、たくさんある。スキー以外での想い出を列記したいと思う。

 ① 札幌雪まつり・すすきの氷祭り・スキージャンプ競技(1985年2月10日)

 ニッカネン(フィンランド)やバイスフロク(ドイツ)など外国勢がめっぽう強かった時代、1985年1月に札幌でワールドカップが開催され、それを友人2人と見に行った。時折、猛吹雪の中、上位陣が飛距離を落とす中、日本の秋元正博が大逆転初優勝を成し遂げた。その場面を、現地の大倉山シャンツェで私はライブで見届けた。交通死亡事故を起こし、再起不能と言われた中、見事復活優勝を果たしたのだった。その帰りに札幌雪まつりを見に行き、地下街を歩いたり、すすきのの「ラーメン横丁」で食べたりしたのだった。 
  
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 ② 丹頂鶴&流氷見学(1985年2月16日・17日)
  
  友人がとにかくアクティブで、ことあるごとに旅に出る時は声をかけてくれた。2月に「流氷を見に行こう」と誘われ、アパートに閉じこもっていては体がなまると思い、誘いに乗った。道東周遊券を購入し、札幌を夜発の夜行特急で朝方に釧路に到着した。その後、バスで「丹頂観測センター」まで行った。そこは樹氷と空の青さと純白な雪のまばゆい光景が広がっていた。気温はマイナス10度以下の極寒の地だった。到着後は丹頂鶴の気配もなかったが、餌付けの時刻になると、どこからともなく丹頂が一羽二羽と山里から飛来してくる。それは神の鳥と呼ぶにふさわしい神々しさだった。
 1980年代のホームドラマ「池中玄太80キロ」で、主演の西田敏行演じるカメラマン玄太が、丹頂鶴の写真を撮影する場面があるが、まさに
あのシーンを地で行くものだった。カメラマンの砲列が連なり、どこからともなく丹頂が姿を現すと、一斉射撃のようにシャッターを切る。そんな情景がリアルタイムで展開されていた。

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 この光景は私のホームページの「風越波海の世界(果てしなき大地)」の詩集に収録してありますのでぜひご覧ください。

 そして、さらに私が感動したのは、宿泊した阿寒湖からバスで美幌駅に向かい、そこから釧網線の特急で網走駅まで移動。そこから定期便の流氷バスに乗り換えて、「能取岬」へ。そのバスは樹氷の合間を縫うように走り、岬の突端まで運んでくれるのだが、途中でバスが故障し、営業所で修理をした後に。岬に向かったのだが、2月なのに満員だった。灯台が立つその岬は、断崖絶壁の上にあるのだが、そこからオホーツク海を見下ろすと、ぽかぽか海面に浮かぶ流氷を予想していた私は呆気にとられた。海と陸の区別がないほど、まるで雪原のように水平線まで繋がっていたのだ。
 時間があれば流氷砕氷船の「ガリンコ号」(現在は「オーロラ号」)に乗船したかったが、訪問時は低気圧により大荒れ模様だった。この時も雨男・雪男の本領発揮だった・・・。不思議なくらい天候には妨げられた。


 ③ 「昨日、悲別で」のロケ地巡り(1985年1月20日)

 夏にバイクで何度も訪ねた場所。1983年にNTV系列で放送された「昨日、悲別で」のドラマに魅了された私は、翌年、北海道に住むことになって、真っ先に訪れたいと思っていたロケ地巡り。結局はこれまで6回も訪ねた想い出の地となった。
 ロケ地は豪雪地帯の炭鉱町「上砂川駅」周辺で行われ、そこから15kmほど奥に行った歌志内市の田舎道に「悲別ロマン座」があった。その頃のロマン座は屋根が朽ち果てて、観光名所には程遠かった。
 私が真冬に訪ねたのは1985年の2月初旬だった。バスを乗り継ぎ、上砂川駅を訪ね、ホームで写真を撮ったり、さらにバスを乗り継ぎ、ロマン座へ。誰も訪れた形跡がなく、新雪の中をズボズボ道を作りながら建物へ往復した。今は屋根も修復し、観光客用に喫茶施設までこしらえてあった。

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 「夏になると思い出す~遥かな尾瀬~、遠い空~」と言う歌があるが、私は毎年冬になると思い出すのが北海道の雪景色だ。もうあれから36年が経過し、あと数年で退職を迎える歳になって思うのは、やはり北海道が大好きだということに尽きる。梅雨のない爽やかな夏も知っているし、マイナス20℃以下にもなる厳しい冬も経験した。北海道に20回行ったことがあると自慢している人も、そこに住んだ人間には勝てないと思う。
 昨秋、28年ぶりにバイクを購入したのも、退職後はゆっくりと時間を気にせず北海道の大自然を満喫し、当時とどう変わったのかを身をもって体験したくなったからだ。
 そんな思い出が詰まった北海道に行ける機会を作ってくれた両親にはいくら感謝してもしきれない。いつの間にかそんなことを想う年齢になった自分がいる。

 後記

 明日から3日連続で「北海道」に関する「想い出の場所&スナップ」の記事をお送りします。

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