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2020年10月 5日 (月)

追悼「戦場に散った日本人ジャーナリストたち」

 この世の中、人を殺めれば「殺人罪」として訴追され、法の裁きを受けるのに、国同士の戦争では敵兵を殺せば「英雄」扱いとなる。しかしひとたび戦争や紛争が起きれば多くの血が流れ、民間人や幼い子供までもが犠牲になる痛ましい結果を招くのは周知のところだ。こうした悲惨な現状を全世界に伝えようと危険極まりない戦地に赴き、自らの命を顧みず、真実を報道しようと決死の覚悟で取材や撮影に奔走している日本人ジャーナリストたちがいる。少し前には「戦場カメラマン」としてマスコミに度々登場した「渡部陽一」さんもその一人だ。
 しかし、その途中、テロリスト集団に身柄を拘束されたり、イスラム国(IS)などによって囚われの身となって、無慈悲にも公開あるいは秘密裏に惨い方法で処刑されたり、取材中に狙撃されたりして、志半ばで命を落とした著名なジャーナリストもいる。狙撃犯は敵でもなく、なんの罪もない人を死に至らしめても逮捕されることも無く、天の裁きを受けることも無く平然と今も生きながらえていることに強い憤りを覚えると同時に、かたき討ちではないが、何ひとつ有効な手立てを講じられない政府に、一種の虚脱感さえ感じてしまう。

 では、そうした戦場で儚くも散って行った日本人ジャーナリストたちを紹介したい。

「山本美香」さん

 ジャパンプレス所属のジャーナリストとしてイラク戦争など世界の紛争地を中心に取材し、ボーン・上田記念国際記者賞特別賞、日本記者クラブ賞特別賞などを受賞した。2012年のシリアでの取材中、銃撃により殺害された。 45歳という若さだった。山梨県都留市出身。
 彼女は天使のような存在で、現地の住民たちにも慕われており、勇気と元気を与えていた。それだけに彼女の「戦死」は日本人だけでなく、世界の多くのジャーナリスト仲間たちにも深い悲しみを与えた。争いのない平和な世の中になって欲しい。その一心で彼女は戦地に赴き、目の前で起きている悲惨な状況を伝え続けたのだった。享年45歳。

Yamamoto
 
 <最期の取材の詳細>

 山本は2012年(平成24年)8月14日に現地入りした。20日シリア内戦の取材中にシリア北部のアレッポにて銃撃を受けて、搬送先の病院で死亡が確認された。パートナーの佐藤が病院で遺体を確認したところ、右腕および首に銃創痕が、防弾チョッキで保護された腹部にも、銃撃の跡があり、大量の出血があった。反アサド政権「自由シリア軍」のスポークスマンは山本の死亡を発表。日本の外務省もこの事実を確認した。山本の家族へは21日の9時頃に、佐藤からの電話連絡で伝えられた
 山本の遺体は、22日トルコ・アダナの政府施設に運ばれ検視が行われた。その後遺体はイスタンブールを経由して、8月25日に遺族や佐藤と共に同便のトルコ航空機(ボーイング777)で日本の成田国際空港に搬送された。同日、警視庁は刑法の「国外犯規定」に基いてこの事件を殺人容疑で捜査を開始。荻窪警察署で検死が行われ、遺体は一旦自宅に運ばれた。翌26日、東京大学病院での司法解剖を経て、首への銃撃による頸髄損傷が致命傷となったことがわかった。また、銃創痕が9カ所あることが明らかになった。このことから狙撃犯は、最初から彼女を殺害する目的であったと推察される。

 死去のニュースを伝える動画はコチラ(埋め込み処理は行いません)→ https://www.youtube.com/watch?v=dZiQCrvYXKo

「一ノ瀬泰造」さん

 フリーカメラマンノ瀬泰造は1947年佐賀県武生市に生まれた。 日大芸術学部で写真を学んだ後、UPI通信社東京支社に勤務。半年の試用期間をもってUPIを不採用になったため、フリーランスの戦争カメラマンとして活動を開始。
 米軍キャンプPXの写真屋で1年間働き資金を貯め、インド・パキスタン戦争へ向かう。1972年3月、ベトナム戦争が飛び火し、戦いが激化するカンボジアに入国。以後ベトナム戦争、カンボジア内戦を取材、『アサヒグラフ』や『ワシントン・ポスト』などのマスコミで活動し、「安全へのダイブ」でUPIニュース写真月間最優秀賞を受賞した。
 カンボジア入国以後、クメール・ルージュの支配下に有ったアンコールワット遺跡への単独での一番乗りを目指しており、1973年11月、「旨く撮れたら、東京まで持って行きます。もし、うまく地雷を踏んだら“サヨウナラ”!(ロバートキャパの最期を捩ったもの)」と友人宛に手紙を残し、単身アンコールワットへ単独で潜入し、消息を絶った。
 9年後の1982年、一ノ瀬が住んでいたシェムリアップから14km離れたアンコールワット北東部のプラダック村にて遺体が発見され、1982年2月1日に現地へ赴いた両親によって確認された。その後、1973年11月22日もしくは23日にクメール・ルージュに捕らえられ、「処刑」されていたことが判明した。 
Ichinose

「橋田信介」さん

 1942年生まれの山口県宇部市出身。宇部中央高等学校卒業後、郵便配達員として働きながら1970年(昭和45年)に法政大学第二法学部を卒業。同年日本電波ニュース社に入社し、カメラマンとして1972年(昭和47年)ベトナム、ハノイ特派員、1978年(昭和53年)バンコク支局長、1980年(昭和55年)ローマ支局長を歴任。ベトナム戦争時には空爆を受けている地上側から取材を行った。

 1988年(昭和63年)フリーとなり、バンコクを拠点に主にアジアの戦争報道を手がける。湾岸戦争ではCNNや『ニューヨーク・タイムズ』にスクープ報道を提供する。カンボジア内戦、ビルマ動乱、パレスチナ内戦、アフガン戦争、ボスニア内戦なども取材し、日本の戦場ジャーナリストのトップランナーとして活動した。

 2003年(平成15年)に山口東京理科大学にて講義し、戦場での体験を生徒に半年かけて伝えた後イラクに戻った。しかし2004年(平成16年)5月27日、イラク戦争取材中にバグダッド付近のマハムーディーヤで襲撃を受け、同行していた甥の小川功太郎(当時33歳)とともに殺害された。61歳没。

Hashida

「沢田教一」さん

 日本の報道写真家。ベトナム戦争を撮影した『安全への逃避』でハーグ第9回世界報道写真大賞、アメリカ海外記者クラブ賞、ピューリッツァー賞を受賞した。
1970年10月28日、カンボジアの首都プノンペンからタケオ州チャンバクへ、プノンペン支局長フランク・フロッシュと共に自動車で取材に向かう。帰途、プノンペンの南約34キロ地点の国道2号線上で何者かに襲撃され、フロッシュと共に死亡。所持していた愛機のライカや腕時計等の金品は無くなっており、襲撃者に盗まれたと見られる。沢田らは15時という、危険な戦場での取材を始めるにしてはあまりにも遅い時間に出発していた事、戦場取材に必須のヘルメットや防弾チョッキを身につけていなかった事など、数々の戦場を経験したベテランらしからぬ最期の行動については謎の部分も多い。

 11月10日、勲六等単光旭日章が追贈、従五位に叙せられる。
 1971年(昭和46年) - 前年5月26日に撮影したカンボジア難民の写真で1970年の「ロバート・キャパ賞」を受賞した。

Sawada

「村本博之」さん

 東京都出身でロイター通信日本支社所属のカメラマン。
 2010年4月10日、タイ王国で、かつて同国の首相を務めたタクシン・チナワットを支持する反独裁民主同盟(UDD)のデモ活動を取材中、UDDと治安部隊との衝突に巻き込まれ銃撃を受けて死亡した。
 警視庁組織犯罪対策二課が行った司法解剖により、死因は貫通した銃弾が心臓近くの大動脈や左肺を損傷したことによる失血死と断定された。4月14日、タイ軍の報道官は治安部隊が暴動鎮圧の為に実弾をデモ隊に向けて水平発射していた事実を認めたが、武装したテロリストがデモ隊に紛れ込み治安部隊に銃撃戦を仕掛けて来たため、自衛手段としてやむなく発砲したと主張している

 2012年3月、タイ政府はこの騒乱で死傷した市民らへの賠償金を閣議決定した。村本もこの対象に含まれ、遺族に賠償金が支払われる予定である。

Muramoto

「長井健司」さん

 愛媛県今治市出身の映像ジャーナリストである。APF通信社所属。日本テレビ報道特捜プロジェクトのディレクターなどを経て、1997年よりAPF通信社の契約記者として活動。常々「誰も行かないところに誰かが行かなければ」と語りパレスチナ紛争、イラク戦争、アフガニスタン空爆などを現地取材し戦争の本質を捉えた映像を撮り続けた。 

 2007年9月27日、ミャンマーのヤンゴンで軍事政権に対する僧侶・市民の反政府デモを取材中、軍治安部隊の兵士に至近距離から銃撃され死亡したと報道されている。背後から無防備の状態で銃弾を浴びて地面にひれ伏しても、最期まで手に持ったカメラを放さなかった。

 当初ミャンマー政府は治安部隊が発砲した際に前からの流れ弾に当たったと説明した。しかし日本のテレビでも放送された別の角度から映されたビデオは、背後から近づいた軍人が至近距離で長井を撃ったと思われる姿を捉えていた(ただし、至近距離から撃たれた場合に残る火傷や火薬の粒子などは確認されていないという)。警察庁の発表では銃弾は左腰背部から右上腹部に抜け、肝臓を損傷し大量の出血を引き起こしたと伝えられている。50歳没。

Nagaikenji

「湯川遥菜」さん 

 2014年7月28日、トルコから陸路でシリアに入国。8月14日、アレッポ郊外で湯川とみられる男性が拘束され、のちISILによるとされる犯行声明が出された。2015年1月24日、湯川が殺害されたとする録音がインターネット上に現れた。現地時間1月25日午後、ISILは宣伝媒体であるラジオ部門を通じて湯川を殺害したことを伝えた。42歳没。千葉県千葉市出身。

 一面砂丘のような「ラッカの丘」の処刑場で、オレンジ色の囚人服を着せられ、無慈悲にもISの戦闘員によって首を掻き切られて絶命した。最悪の場合、こうなることを承知の上で、敢えて危険な地域に足を踏み入れたからには、或る程度死を覚悟していたとは思うが、敢えてそういう場所に赴くからには、「誰かが犠牲になっても真実を伝えなければならない」という、ジャーナリスト魂のような、或る意味、責任感や正義感、あるいは義務感なるものを背負っていたに違いない。
 首と胴体を切り離された映像は、あまりにも衝撃的で、それでも何ひとつ救出はもとより、報復行為を行えなかった日本政府もまた、残念に思えた。政府のコメントは「身代金の要求には一切応じられない」とし、湯川さんに対しては、「あれほど危険な場所には行かないように警告していた筈なのに・・・」という言い訳がましい弁明だった。

「後藤健二」さん 

 彼もまた仙台市出身で、日本を代表するフリーランスの国際ジャーナリストだった。主に中東を中心に紛争地域の取材を続ける中、湯川さんと同じ時期に戦地に赴き、武装したイスラーム過激派のISIL(イスラミック・ステート、イスラム国)にシリアで拘束され、2015年1月30日に殺害された 。 満47歳の若さだった。

 「YouTube」にアップされた殺害映像を見て、息子の死を確信した母親は、2月1日午前に会見を開き、「今はただ、悲しみ、悲しみで言葉が見つかりません」「憎悪の連鎖になってはなりません」「戦争と貧困から子どもたちの命を救いたいとの健二の遺志を引き継いで下さい」と泣きながら訴えた。

Yukawa-goto

 彼らは生命の危険を承知の上で、銃弾が飛び交い、爆弾があちこちで炸裂する戦場で、嘘偽りのない真実の世界を伝えたからこそ、地球の裏側では、同じ人間同士が憎しみ合い、そして殺し合い、幼い子どもが犠牲になっているという真実を我々は知ることになったのである。

 今回なぜこのテーマにしたかというと、私自身、高校生の頃に英語が得意で、さらには紀行文やエッセイなどの文章を書くのが好きだったことで、将来は海外の特派員や新聞記者、あるいはルポライターなどのジャーナリストを目指した時期があった。
 そこで、一浪の末に慶應義塾大学の法学部に進学し、今はその名残りでこうしたブログを書いている。

 死の危険と隣り合わせの緊迫した状況の中、決死の覚悟で戦場で取材、そして撮影を繰り広げるジャーナリストたち。それは真実を全世界の人々に伝えたいというジャーナリスト魂が信念として宿り、その結果、戦場で銃弾に倒れたのだ。もしかすると、私が同じ立場だったかもしれないと思うと、他人事とは思えず、居た堪れない気持ちになる。あなたたちの正義を受け取り、現在も戦地で体を張って取材を続ける優秀なカメラマンや記者にその魂は引き継がれている。よって安心して安らかに眠って欲しい。それだけしか言いようがない。 

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コメント

isilによる湯川さん後藤さん誘拐事件は衝撃的でした。イラク日本人青年殺害事件と同じく首を切断されるとは..。遺体が帰された福岡市の青年とは違い、湯川さん後藤さんの遺体は未だに放置されたまま..。
治安があまりにも危険な国に行った場合は命がないですね。

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