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2020年8月20日 (木)

郡山の地名で思うこと

 掲載再開にあたり、昨日、今日、明日の3日間は、地元「郡山市」に纏わる話題をお送りします。

 まず「郡山市」の地名の由来だが、8世紀に「石背国」が設置された際には「方八町」に国府が置かれたという説がある。 ちなみに当時の古代律令制度の下で、郡の官人(郡司)が政務を執った役所のことを郡衙と言うが、「郡山」という現在の地名は、この郡衙が当地に置かれていたことに由来する。

   Koriyama-city

 なお、ここから先は、郡山市の町名について取り上げます。郡山市のウェブページの記載を参考にしていますが、すべてが正確な情報というわけではなく、真偽のほどが定かでない部分は、私見も含まれていることをご了承ください。

「艶っぽい」地名

逢瀬町

 禁断の恋に堕ちた恋人同士が人目を忍んで逢引きをするようなイメージ。市内の西部一帯に広がる。山の麓という印象。清掃センターや逢瀬公園などがあり、自然豊かな憩いの場所という印象がある。しかし、ここ最近、3件の殺人事件が相次いで発生してしまい、イメージを損ねてしまった。17歳の少女・暴力団による集団リンチ・つるはしで警備員を襲撃して殺害した事件だ。もちろん住民には何の非もない。

 地名の由来は、「逢瀬町」が誕生したのは、比較的最近のことで、それまでは、逢瀬町を構成する三つの地域(多田野・河内<こうず>・夏出<なついで>)がそれぞれ独立した村として存在していました。
 明治22年4月1日町村制が施行され、夏出村は河内村と合併して河内村となりました。昭和29年河内村と多田野村の翌年の合併が決定すると有識者たちによる合併協議会が設立され、その席で合併後の村名を両村を縦断するように流れる逢瀬川にちなんで「逢瀬村」とすることが決定されました。昭和40年5月1日に郡山市の大合併により逢瀬村から逢瀬町になりました。

うねめ町(采女)

 市内の北西部に片平町という地名があるが、そこにある采女神社を発祥として、采女伝説がある。熱海町にも萩姫伝説があるが、ここもまた聞きしに勝る春姫という美人がいた。
 約千三百年前、陸奥の国安積の里(現・郡山市)は冷害が続き朝廷への貢物ができないほどだった。このため奈良の都から巡察使葛城王が訪れた。
 里人たちは窮状を訴え貢物の免除をお願いした。しかし、その願いは聞いてくれなかったという。その夜、王をもてなす宴が開かれ、王は里長の娘、春姫を見そめた。春姫は心から王をもてなし、歌を詠んだ。
 王は大変喜び、春姫を帝の采女として献上することを条件に、貢物を三年間免除することになった。春姫には、次郎という相思相愛の許嫁がおり、悲しみをこらえて別れた。
 都での春姫は、帝の御蘢愛を受けていたが、仲秋の名月の日、次郎恋しさに猿沢の池畔の柳に衣をかけ、入水したように見せ、愛する次郎の待つ安積へ向かった。
 里へたどりついた春姫は、次郎の死を知り、雪の降る夜、あとを追って次郎と同じ山の井の清水に身を投じた。やがてみちのく安積の里にも春が訪れ、山の井の清水のまわり一面に名も知れぬ薄紫の美しい可憐な花が咲き乱れていた。
 なんとも悲恋の物語だが、若くしてはかなく散った命だからこそ、こうして語り継がれたのであろう。
 
「なぜ?」という地名

長 者

 かつて「虎丸長者」という名称の大金持ちが住んでいたとの伝承がある。現在も「虎丸」と「長者」という地名は今も残されているが、その「虎丸長者様」がどこに大豪邸を構えていたかなどは不明で、謎である。

  Koriyama-city3

 しかし、私がイメージする、郡山市の由緒ある金持ちと言えば、郡山のかつての名士であった「津野一族」か「太田一族」が真っ先に思いつく。津野一族は4号線と駅前大通りの角に「津野呉服店(津野百貨店・津野デパート)」を経営し、さらには市街一円に土地を有していた大地主でもあった。その発祥である「津野喜七」氏は佐賀県出身で、現在の東京大学農学部を卒業し、郡山市の津野家に養子で入った。津野百貨店の社長となり、昭和2年郡山市議会議員に当選し、7年には推されて市議会議長の要職に就く。一方、県農業会副会長に就任し、郡山市の政治、商業、農業等広範囲な方面に活躍した。21年、市民の信望を一身に集めながら他界した。享年51歳。
 私の実姉の小中時代の親友が、この津野喜七氏の孫だった。自宅が虎丸町にあり、やはり和風庭園の大きな居宅だった。その孫娘も相当の美人だったことを覚えている。

 また、太田一族は、明治28年に中町に太田医院を開院し、その後、綜合病院として太田記念病院、西ノ内病院、熱海病院など市内で有数の大病院に成長した。現在でも市内各地に「太田〇〇病院」など各科が点在しているが、大部分はその親類などが経営しているものと思われれる。太田一族=医師の家系と言えそうだ。
 郡山には、星総合病院や寿泉堂病院、南東北病院などがあるが、郡山の巨大病院と言うと、真っ先に「太田綜合病院」を思い浮かべる。

久留米

 内環状線の南の外れで安積町荒井と接する地域は「久留米」と呼ばれる。「水天宮」という神社が守護神らしい。この久留米という地名は昔からあったのか?明治時代に国策としてオランダの技師ファンドールンを招き、猪苗代湖から一本の水路を引くことで農業や工業用水を確保し、稲作によって食糧を確保したり、水力発電で電力事情を賄おうと一大開発工事を行った。
  その際、人手不足を補うために、九州の久留米などから多数の人夫を入植させて、長期に渡って工事が行われた。その功績を後世に残そうと、そのまま「久留米」という地名を残したのではないか。また、真偽のほどは不明だが、郡山の方言には、語尾に「~だばい」と「ばい」を付けるが、これは博多弁のそれと一致する。あくまで仮定の話だが、あながち全否定できない印象がある。

熱海町

 「熱海」と言えば静岡県のイメージしかないのが。昭和30年代頃までの時代は、新婚旅行の人気No.1だった。なぜ郡山の奥座敷が「熱海」なのか?

 文治5年(1189年)、源頼朝は奥州平泉の藤原氏を打ち滅ぼし、文治8年(1192年)に鎌倉に幕府を開き武家政権を確立しました。この奥州攻めに参戦した武士たちに対して、頼朝は平泉で論功行賞を行いました。これによって、新しく安積郡の領主となった伊東氏が、故郷の伊豆を偲んで名付けたといわれています。(伊豆の「熱海」の地名は、海中から熱湯が噴出したことから起こったといわれています。)
 それゆえ、熱海町内には、「上伊豆島」「下伊豆島」など伊豆にちなんだ地名が多くあります。
 また、山間部にあり、海には程遠い地域であるにもかかわらず、「熱海」の名がつけられたところからみて、当時から伊豆の熱海同様に温泉が湧き出ていたと推測できます。

安積町

 市内の南側に展開する広大な安積町。安積野とか安積山など歌に詠まれるほど郡山の総称的な名称だと言える。知らない人は、「あさか」とは読めず、「あづみ」と読んでしまう。未だに安積高校やあさか開成、帝京安積高校という学校名が残る。
 私自身は「安積高校」卒業ではないが、ここのOBは何かというと他人の学歴を気にする方が多い。「勝ち負けの優越感に浸りたいのか」、すぐにどこの大学出身ですか?と聞いて来る。私が「慶應義塾大学法学部です」と答えると、急におとなしくなる。
 所詮、その程度の人間関係しか築けないのかと情けなくなる。変なこだわりがあるのが見え透いている。人間、学歴ではなく性格や人間性が一番大事だと思うのだが・・・。        

 「安積」5世紀から6世紀にかけて、支配地を日本全国に広げた大和政権は、地方の支配を確実なものとするために、大和政権に服属した地方の有力豪族を国造に任命し、その地域の統治にあたらせた。
 当時の安積の地には阿尺国造がおかれ、比止禰命という人物が任命されたという。この「阿尺」が現在の「安積(あさか)」の地名の由来といわれている。

 ほかにも「鶴見坦」という地名は郡山市にはふたつの地域がある。有名なのは開成山公園の南東側一帯を指す地名で、もうひとつはあまり知られてないが、日和田町にもあるのだ。「あさかのバイパス」の北の終点にイオンフェスタやケーズ、イエローハットなどがあるが、その南西側一帯を言う。

 「なるほど」という地名

  静町

  静御前伝説が残る地名だから。かつて頼朝に討伐の命を受け、弁慶を伴って奥州へ逃げ延びた源義経。妾であった静御前は彼の後を追って奥州街道を北上。しかし、奥州平泉で義経が討たれたとの報を受けた静御前は、宿場町であった郡山の地で、池に身を投げ自害したとの言い伝えがる。それが現在の郡山運転免許センターの向かいにある通称「美女池」。あわれに思った住民が、彼女を供養するため、静町に「静御前堂」を建て、お祀りしたとの伝承がある。その一帯の地名が「静町」となった。静御前の終焉の地を巡っては、全国あちこちに伝説があり、また、日本各地に彼女の墓と称する場所がある、したがってこの地の伝承も真偽のほどは定かではない。

  菜根

 中心市街地から南西方向に2kmほど行った地域。この辺は明治時代くらいまでは一帯が広い田畑で、野菜作りに適した土地であった。高台だったため、水害に遭うこともなく、水はけのよい土壌で農業にはもってこいの場所だったようだ。

 大槻町

 「大槻」はもと「大豆生」と書き、豆生産に適した地味に由来するとも、槻(大ケヤキの古語)の大樹があったからともいう(安積郡誌抄)。

 喜久田町

 「喜久田」の地名は明治9年当時の早稲原・前田沢村・堀之内村・下伊豆村(現在は熱海町下伊豆島)の4つの村が合併した際に初めて名づけられました。
  地名の由来は、はっきりしませんが、一部の長老たちは、「合併当時は作物など実らない荒地だったため、早く喜びがもたらされる土地にしたいという願いを込めて『喜久田』と名づけたのではないか。」と語っています。
  
 富久山町

 「富久山」の地名は明治9年当時の久保田・福原・八山田の3か村が合併した際に初めて名づけられました。地名の由来は、はっきりしませんが、福原・久保田・八山田の各村名から一文字ずつ取り「福久山」としたものを「富久山」に改めたという説があります。 

 日和田町

 「日和田」の地名は、近世以前は、「部谷田(ヘヤダ)」「部和田(ヘワダ)」「辺和田(ヘワダ)」「戸和田」「此谷田」などと書かれていました。相生集(天保元年<1830年>)には、「日和田」の記述があります。
  いつの頃から「日和田」と書かれるようになったかは定かではありませんが、寛永の賦額や文書などに「部谷田」とあることから、寛永末<1643年>頃までは「部谷田」と書かれていたのでは、ないかと思われます。また、松尾芭蕉の『奥の細道』に「檜皮」という記述がありますが、「日和田」の借字ではないかと言われています。

 なお、全国の都市のどこにでもありがちな町名も多数ある。

 駅前・大町・中町・本町・栄町・並木・希望ヶ丘・緑町・緑ヶ丘・田村町・中田町・中野・西田町・富田町・百合ヶ丘・柴宮などが挙げられる。

  Koriyama-city2

 市民にも認知度が低い地名

 大平町・燧・燧田・谷島町・菱田町・安原町・深田台・船場向

 さて、県外出身者や市外の方にはピンと来ないようなローカルすぎる話題だったが、私も足掛け46年間も郡山市に居を構えている身ながら、町名の由来など一度も考えた試しがなかった。人生も半ばを過ぎた年齢に達した自分にとっては、こうした地元の歴史や「なぜ?」という疑問に答える時機があってもよかろうと思い、取り上げたまでだ。
 なお、冒頭で申し上げた通り、今回の記載はすべて裏付けがあるわけではなく、予想の範囲で推論で申し上げた部分もあることをご了承願います。

 最後に、私もどうしてこういう名称がついたのか不明の地名で、いつか解明したいと思っているものを取り上げたい。

 備前舘・香久池・五百渕・堤・堤下・台新・名倉・小原田・土瓜・島・横塚・方八町

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 追記(郡山市の新型コロナ感染者、急増中!)

 上の記事は8月初旬に作成したものですが、ここからは最新情報をお伝えします。

 我が福島県の新型コロナ感染者数は8/19(水)現在、113名となった。この数日前に100名を越えてからあっという間に急増した。
しかも県中央部に位置する郡山市の増殖は異様だ。8月以降、福島県は25名が感染したが、そのうち約半数近い11名が郡山市だ。いずれも県外に出張して感染したり、県外から郡山に来た方と会食して感染したりするケースだ。11名のうち6名が県外からの帰省で感染が判明。あれほど注意喚起されていながら、安易に県外の方と接触している現実。しかも東京に遊びに行っている若い方たちの感染が多い。
 郡山は新幹線の乗降客が一日1万人近いため、県外からの流入者が多い。また、新幹線通勤者もいることから、東京など首都圏で感染し、それを持ちこんでいる。加えてビジネスマンなど郡山から東京や大阪、愛知など感染者が多い地域に出張などで出向くケースが圧倒的に多いことから、感染が急増している理由になっている。
 では、最近の郡山市の感性状況を検証したい。

 8月17日(月)時点の郡山市の感染者数15名
 8月18日(火)3名(20代男性2名・30代男性1名)郡山市の合唱サークルが合宿をを郡山市の青少年会館(大槻)で実施。その中の福島大学
       の学生ひとりの感染が判明。同じ合宿に参加した42名が濃厚接触者となり、PCR検査結果によっては爆発的に増える可能性あ
                    り。しかも合唱のためにマスクをしないで練習し、閉め切った空間だったため、飛沫感染が懸念される。 
 8月19日(水)2名(50代男女1名ずつ)前日に感染確認された合唱合宿に参加した大学生の家族(濃厚接触者)
        郡山市内だけでこの2日間で5名も増加。この大学生は東京から兄弟が帰省して、一緒に食事をして過ごし、それで感染した可
        能性が高いという。もちろんその両親も同様。
  8月20日(木)7名のうち3名が郡山市民。女子中学生2名、20代の男性も感染。いずれも合唱サークル参加者でクラスターと断定。

 したがって、東京から帰省したり、東京に出向く行為は、現在の状況を考えれば厳に慎むべきだったといえる。

 福島県内の市町村別感染者数(8/19時点)

 1 福島市  25名
 2 いわき市 20名
 2 郡山市  20名
 4 南相馬市 14名
 5 本宮市  10名
 6 須賀川市   8名
 7 田村市    3名
 7 白河市    3名
 9 会津若松市  1名

 感染者113人のうちの107人が県内の「市」に居住している方。町と村は6人しかいない。しかも感染者は中通りと浜通りに集中し、不思議にも会津地方の感染者はゼロという怪現象が続いていて、まるでずっと全国でここだけが感染者ゼロを保って来た岩手県のようだった。しかし、19日(水)、会津若松市でついに10代男性の感染が初めて確認された。

 それにしてもここ数日の郡山市の感染数は異常で、よって郡山市を訪れる予定の県外の方は、現在の感染地域をよく確認の上、マスク、手洗い、うがいなどを励行し、万全の体勢をお願いしたい。また、不要不急の県外への旅行などは控えてほしい。「自分は大丈夫」、その油断が感染を招き、あなただけでなく、家族や友人、同僚などを巻き込む惨事に至ってから後悔しても遅いのだ。

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