2020年8月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
無料ブログはココログ

« 福島県民が二度と行けない場所 | トップページ | 残念な自分脱却計画 ~文学作品で教養アップ編~ »

2020年5月30日 (土)

オールドリスナー必聴!「ラジオ福島」回顧録

  「JOWR」と聞いただけでそれが何を意味するかわかる人は、よっぽどのラジオ通だろう。さらに言えば「周波数」1458KHz、1098KHzと聞いただけでピンと来た人も同様だ。

 「JOWR」はテレビやラジオ、無線局などにつけられる符号で、通称「コールサイン」と呼ばれる。「JOWR」はここ福島県に1953年に開局し、67年もの歴史を誇る「ラジオ福島」のものだ。当時は、全国で30番目に開局した県内初の民放ラジオ局だった。
 さらに中波(AM)の周波数1458KHzとは福島局のもので、郡山局は1098KHzである。郡山でも1458KHzにチューニングしても聞こえるが、かなり混信し雑音で聴き取りづらい。よって電気通信局(当時は電波管理局)がこのように割り当てたのだ。しかし、この周波数も1978年までは違っていて、現在のようにコマ切れにはなっていなかった。福島は1460KHz、郡山は1100KHzだった。私がよく聴いていた「ニッポン放送」は1240KHzだったが、1242KHzに変わってしまった。

 その地にも地元密着の情報満載で提供している放送局の「ラジオ福島」は、今では受信機さえあれば「ワイドFM」でクリア―なサウンドで視聴を楽しむことができる。そこまで進化している。
 「東日本大震災時の生放送中」のスタジオでは、深野健司アナの冷静な呼びかけと的確な情報提供に、助けられた方も数多くいると思うし、私などは、入浴中のナイター中継(RFCエキサイティングナイター)など、中高生時代の必須アイテムだったし、特に大学受験では深夜放送を流しながら励むなど、「受験の友」だった。
 その時に聴いていたのは「ビートたけしのオールナイトニッポン」(木曜深夜)、「笑福亭鶴光のオールナイトニッポン」(土曜深夜)、「いすゞ歌うヘッドライト」(石渡のり子)(金曜午前3時)のファンだった。特に「歌うヘッドライト」はエンディングの「夜明けの仲間たち」を聴きながら朝を迎えていた。

 オープニングはコチラ

 エンディング「夜明けの仲間たち」

 1980年までは、我が福島県は「青少年育成」のための規律が厳しく、テレビやラジオは深夜の時間帯は放送していなかった。子どもに良くない情報は極力回避していたため、深夜放送はもっぱら東京のキー局に周波数を合わせて聴いていたが、混信がひどくてなかなか聞き取れない代物だったが、1980年代に入り、県民の要望からようやく「ラジオ福島」でもネットを開始し、受信が可能になった。

 また早朝は、タイマーで録音した「旺文社大学受験ラジオ講座」(通称:ラ講)で追い込みをかけていた。あの開始のBGMもずっと耳に残っている。そのおかげで、私は大学受験に合格できたと思っている。
 ついでに言うと、「日本短波放送」(現在ラジオNIKKEI)のアイドル女子アナだった「大橋照子」さんに憧れた時期もあった。慶應義塾大学卒の才女に加え、あの可愛らしい声と喋りに癒されていた。だから私も彼女を追って同大に進学したのだ。当時のラジオDJやMCは、あまり顔を露出する方は少なかったが、大場久美子に似たアイドル顔の彼女の風貌は、瞬く間に人気に火が付き、マイナーだった短波放送の存在を世に知らしめた第一人者だった。

 「ヤロメロ」の大橋照子さんの涙の結婚宣言はコチラ
 
 さて、ついついラジオへの思い入れの強さから、本題である「ラジオ福島」の話題は後回しになってしまった。
 今日は何を中心に記事を書きたいかというと、今では放送終了してしまった自主制作番組を振り返り、懐かしみたいという趣旨だ。ではどうぞ!

 1 「夜をぶっとばせリクエストで45分!」

 平日の夜中、午前0時15分から1時までの放送で、日替わりで「ラジオ福島」の局アナがMCを担当し、リスナーからのはがきを読んだり、リクエストに応えて音楽をかけるといった内容だった。番組形式はリスナーリクエストによる音楽番組である。番組開始当初は曜日毎にリクエストジャンルが決められていた(月曜 ポピュラー、火曜 歌謡曲、水曜 映画音楽、木曜 懐メロ、金曜 詩と音楽、土曜 プレゼントリクエスト)がその後自由にリクエストできるようになった。
 担当は月曜日が荒川守アナだった。ほかにも荒瀬英俊アナ、菅原俊二アナ、村田稔アナ、鈴木紀男アナなども担当したが、私は何と言っても金曜日担当の「かぐや姫」こと「竹野美智子」アナが大好きだった。それは私が中学3年生の時で、高校受験の合間に聴いていた、いわば「心の支え」だった。
 しかし、残念なのは、1979年の4月から1980年の3月までという僅か1年しか担当しなかったことだ。なのに、県内の中高生のハートをがっちりつかみ、人気が高かった。可愛らしい声と話し方は一度聞けばラジオの前に釘付けになるほどで、特に、リクエスト募集のジングルが笑えるものだった。

 歌舞伎のような囃子に乗って、かぐや姫が「ずずっ~と近くへ 遠慮はいりませぬ よろしいですか では参ります 紙と筆をお持ちくださいませ リクエストの宛先を申し上げまする」と色っぽくアナウンスするが、その最中に歌舞伎役者の掛け声で「よぉ~」とか「はっ!」とか割り込む。これが傑作で夜中なのに大爆笑させられたものだ。あれから40年が経ったなんて信じられない。

 彼女の最後の放送音源が「県外の方が録音したようで、かなり雑音が入っているが残っている。それを聴いてほしい。

 Part2の続きはコチラ

 実は私も全く同じ放送(かぐや姫の最終回)を録音していた。かなり音質はクリアで、放送終了後、何回も繰り返し聞いたものだが、そのカセットテープは今はどこに行ったかわからない。たぶん、母親ががらくたと思って処分したに違いない。母親というのは子どもが大事にしていたものでも、勝手に捨てる性分のようで、それで何度も親子関係が悪くなったものだ。

 この「夜をぶっとばせ」は1984年8月の番組終了まで12年2か月続いた。後継番組の「ミュージックストリート夜はこれから」は振るわず、僅か1年8か月で終了となった。

 2 「ルーテルアワー・カプセルメイト」

 平日の深夜0時から放送していた。野田町にあるカトリック系の教会の牧師を中心にキリスト教の聖書に基づく教えを説いていた。私はキリスト教徒ではないが、その時間だけは毎回、神聖な気持ちにさせられたものだ。1970年代は、あまり宗教に凝る人など少なく、どちらかというと異質に思われた時代だった。そんな中、布教活動を行い、長く続いた長寿番組だった。ナレーションは「青木淳」さんが担当していた。口調もゆったりし、一言一句が丁寧で、さすが神に仕えし人物だと感心したものだ。
 
 最終回の音源は→コチラ (ログインが必要です)

 
 3 「たむたむたいむ」

 これは「ニッポン放送」で放送していた「かぜ耕士」の番組ではなかったように思っている。確か、地元の高校の放送部(女子高生)や大学生っぽい人が番組MCを担当していた10分間番組だった。最近の流行や関心がある話題をチョイスし、雑感めいたことを気ままにしゃべっていた。
 私の記憶では23時10分から放送していたと思うのだが、「weblio」によると、1975年当時、ラジオ福島では22:25から20分間の放送だったようだ。

 こんな番組だったと思う→コチラ

 4 「魅惑のニューディスク」

 1970年代の後半から1980年代頃まで、平日の「夜をぶっとばせ」の後、午前1時から放送していた音楽番組。現在もフリーアナウンサーとして活動され、NHK-FMで「歌謡スクランブル」のパーソナリティーを担当している「深沢彩子」アナウンサーが担当していた。落ち着いた大人っぽい妖艶な口調で、深夜には打ってつけの人材だった。
 彼女は早稲田大学教育学部を卒業され、佛教大学の大学院で修士課程を修了されるなど、学問に長けており、大学で教鞭を執られていた経歴を持つ。

 5 「福島のむかし話」

 1979年10月に放送を開始したラジオ福島のラジオ番組。現在は「ORANGE TIME」に内包されている。2012年5月24日に放送1万回を迎えた看板番組。こちらは番組名こそ「おばあちゃんのむかし話」と変わったが、昭和の頃から長く続く、福島県に纏わる民話」を福島弁丸出しで独特な語り口調の語り部である「森和美」さんが担当している。オープンニングのBGMがまた郷愁を誘う曲調。ほっこりするような、どこか懐かしくて田舎のお袋を思い出させてくれる。

 6 「RFCエキサイティングナイター」

 私が小学生の頃から聴いていた「プロ野球」の巨人戦のナイターを中継していた。時間帯は18時頃から21時頃まで。試合時間の延長によって21時半頃までは放送を延ばしていた。特に入浴中に古いラジオで聴いていた。
 景気のいいオープニングは今でも鮮明に記憶にあるし、私が覚えているのは二死満塁の絶体絶命のピンチの場面で、巨人の関本四十四投手が三振に斬ってピンチを脱した場面だった。緊迫した中で湯船につかりながら聴いていて、胸をなでおろした記憶がある。
 この中継中に私が好きなCMがあった。たぶん県内の自動車学校の宣伝で、それに使われてた歌が心地よかった。最後に「♪遠く~と・お・く~♬」と歌い上げる歌詞だった。今でも何のCMだったかわからない。可能性としては「郡山自動車学校」か「富久山自動車学校」かなと思うが、自信はない。

 ほかにも名物だった番組で懐かしいものは数多ある。

 ・「おはようカーですコロナです」・・・時代を感じる。コロナは廃盤になったが、ミドルカーとしてTOYOTAの主力だった。
 ・「コルニエツタヤでこんにちは」街角からの中継だったり、収録を行っていた。
 ・「土曜deゴンザレス」内容は覚えていないが、こういう名前の番組があったことは覚えている。
 ・「おはようチエちゃん」私が20代の頃、いわき市に勤務していた際、植田にあった「スナック麗」によく行ったが、そこの元気溢れるマ マ。私が郡山に引っ越した後、私の結婚式に「祝電」を打ってくれたほど、優しい人だった。まさかその後、ラジオに大抜擢されるとは・・・。「鏡田辰也」アナとのコンビで平日の昼下がり、「ハッピーチエちゃん」というコーナーもあった。 
 ・「さわやかマイタウン」
 ・「レインボーカラオケ歌合戦(エンドーチェーン提供)」まだ福島のまちなか広場に「エンドーチェーン」があった頃に、このデパートを提供とした番組で、中継を結んでいろんなイベントをやっていた。

 最近では、夕方に放送していた「ラジオいっぷく堂」や手塚伸一の「夕焼け番長!」などは車で帰宅する際によく聴いていた。
 

 6 その他 
 
 自主制作番組ではないが、「ラジオ福島」でネットしていた番組で印象に残っているのは以下の番組だ。

 ① 「日立ミュージック・インハイフォニック」(平日夜10時)
 ② 「田原俊彦の恋の気分はShe says do!(資生堂)」(平日夜11時)→その後「ひかる一平」が担当
 ③ 「岩橋修平のなんとか旅」タイトルは詳しく覚えていないが、平日の夜11時20頃から10分程度の放送だった。「たむたむたいむ」に続いて放送していた。

 ところで、旧ブログ、当ブログで何度か取り上げたが、私が中学時代には空前のBCLブームが起こり、それに伴い受信報告書を送ると各放送局特製のオリジナルデザインの「ベリカード」を貰う趣味が一世を風靡した。短波放送対応のオールバンドラジオも売れに売れた。テレビと同じくらい若者は深夜放送を中心にラジオを聴いたものだ。せっかく苦心して、金と労力を使って集めた100枚以上の「ベリカード」も、知らないうちに母親に処分されていた。

 私もBCLにハマった一人だが、かつて「ラジオライフ」とか「アクションバンド」なる書物を読み漁って、全国各地、あるいは短波放送で世界各国のラジオ放送を聴いてはベリカードを集めたり、アマチュア無線の免許を取得し、ハンディタイプの無線機を改造し、消防無線や航空無線の交信を傍受したりしていた。学生時代に東京に住んでいた頃は、私の友人などはデジタル化される前の「警視庁」の無線を聞いていたようだ。特に、土曜日の夜はひっきりなしに110番通報が入り、通信指令室が入電後に各所轄へ出動要請する内容を聞いて、東京のどこでどんな犯罪が発生したか「一聴瞭然」だった。現在はもう暗号化され、聴くことは出来なくなっている。 
 そんな時代にあって、「ラジオ福島」は私にとって心のよりどころになった時期が確かにあったのだ。今でも長く続く名物番組も多く存在して、何やら嬉しくなる。
 続いて、ラジオ福島の昭和時代から続く名物番組を紹介したい。

 「昼の希望音楽会」(月~金の午前11時)
 「グリーンメロディ―」(月~金の正午)
 「歌のない歌謡曲」(月~金)現在は「レディ・オン」の中のコーナーのひとつとして放送中
 「農家の皆さんへ」(月~金の午前5時15分)
 「お母さん教室」(月~金の午前9時40分)
 「おばあちゃんのむかし話」(月~金の午後6時20分)
 
 これらは相当年数が経過した長寿番組で、今も生き残っているし、それらのBGMもしっかり耳に残っている。そして今でも「交通情報」や「天気予報」、「地元のニュース」などを中心に聞いている。何かと有用な情報をリスナーにもたらしてくれる日常のライフパートナーなのだ。

 ではここで少し残念な話題に触れなければならない。もしかすると、局の関係者はあまり触れて欲しくないかもしれないが、「ラジオ福島」に関する記事を執筆する時には絶対に欠かせない話だ。決して興味本位で記すものではないことをお断りしておきます。

 もう知る人も少なくなったと思うが、6月6日と言えば、かつて「ラジオ福島」の新進気鋭の女性アナウンサーが在職中に殺害されるという痛ましい事件が起きた日だ。私は26年経った今でもその事件を知らせるニュース映像を覚えているし、脳裏に焼き付いて離れない。

 それは忘れもしない平成6年6月6日という、不吉な数字である「6並び」の日に悲劇が起きた。その前年の4月に入社したばかりの新人アナウンサーだった「廣瀬真弓」さんが、大学時代からの先輩で、交際相手だった「奈良テレビ」の25歳の報道記者Nに包丁で刺され殺害されたことを伝える一報だった。死因は急所など十数箇所を刺されたことによる出血多量での失血死。

 その記者は別れ話のもつれから復縁を迫るため、前日の5日から休暇をとり、わざわざ奈良県から福島市まで車でやって来た。しかも犯行に及んだ場所は、職場である下荒川8番地の「ラジオ福島」が、本社の南向いに社員の女子寮として借り上げていたアパートだった。その2階にある自室にて彼女は凶行に倒れた。今でもそのアパート自体は残っている。おしゃれな名前の4世帯が入居できるアパートが2棟並んでいるが、西側の建物だ。そして殺害現場となったのはその建物の2階の東側の部屋。

00a43cb2_2020053007130100a43cb2_20200530071302  

 事件が起きたのが平成6年6月6日(月)。映画「オーメン」に登場する悪魔の子「ダミアン」が頭に「666」のアザがあったことで、これが不吉を表す凶数として忌み嫌われるようになった。それを奈良テレビのN記者が狙ったかどうかは不明だが、偶然とはいえ、このような事件が実際に起きたことで私は言い知れぬ恐怖心を抱いた。

 当時の事件を伝える地元新聞の記事 (*画像クリックで大きくなりますが、閲覧は自己責任でお願いします。)

福島民友新聞(平成6年6月6日の夕刊)

Img_7784   

福島民友新聞(平成6年6月7日の朝刊)

Img_7785  

福島民報新聞(平成6年6月7日の朝刊)

Img_7783  

 彼女自身は、亡くなった日の6月6日から3日間、休暇をとり、郷里の埼玉に帰省する予定だった。その前日、かつての交際相手(元カレ)が突然に目の前に現れるとは想像していなかっただろうし、埼玉県出身だった彼女が赴任先の地でまさか命を奪われるとは考えもしなかった筈だ。予想だにしない事件によって、そこで命を落としたわけだが、凶器となった文化包丁で全身十箇所以上も刺された後、死ぬ間際に、彼女は恐怖と共に薄れゆく記憶の中で、一体何を思ったことだろう。この世に未練はあっただろうし、その後もいろいろな人生経験をするはずだったに違いない。わけがわからないまま死んで行ったのかもしれない。その記者自身も除光液(ベンジン)を飲み、お湯の張った浴室で左手首を切って自殺を図ったが死に切れず、意識朦朧の状態で搬送され重体となった。警察の調べでは、どうやら別れ話のもつれによる記者の一方的な無理心中とのことだが、その後、その記者は怪我の回復を待って殺人容疑で逮捕された。

 ラジオのアナウンサーだったこともあり、私自身は彼女の顔までは存じ上げなかったが、廣瀬真弓アナは、その2か月ほど前、ラジオ福島の午後ワイド「RFCワイド午後1番」の「いってみっカー中継」に出演したのだった。確か開成山公園から桜の花見の様子をリポートしたり、新人離れした度胸の良さで、自分を「歌姫」と称し、カラオケを3曲歌うなど、これから活躍が嘱望されていた。しかも、無事に社内研修を終え、6月から「あぶくま洞を訪ねて」、「週間ラジオライブラリー」などのレギュラーを担当し始めたばかりだった。地方のラジオ局アナウンサーが23歳という若さで命を絶たれたことは世間に衝撃を与えた。

 同局の大和田新アナウンサーの「Facebook」に掲載されていた彼女の写真を引用させていただきます。

Hirosemayumi  

 その記事と当時の新聞記事によれば、亡くなった彼女の第一発見者は、ほかでもない大和田新アナウンサーご自身だったということだ。彼女の下の部屋に住んでいた同僚が、「助けて!」という叫び声を聞いて、大和田アナを呼び、マスターキーを使って室内に入った時には、彼女はパジャマ姿のまま、すでに亡くなっていたという。冷たくなって変わり果てた彼女を見つけた時のショックは想像を絶するし、大和田アナは、廣瀬アナの入社当時のアナウンス部長だったことで、彼女を守れなかったことを死後20年経っても悔やまれている。そして彼女の命日には合掌を欠かしたことはないそうだ。

 大和田新アナの「Facebook」はコチラ 

 写真を見ても当時、流行っていたであろう「ソバージュ」がよく似合うべっぴんさんだったことがわかる。

 同僚であり、先輩アナウンサーだった「大和田新」アナウンサーは、ここまでの事件のあらましなどは心情的に書けないと思うので、「ラジオ福島」のファンで、足掛け45年の長きに渡って放送を聴いて、同局への思い入れと想い出がたくさんある私が代筆させていただきました。

  あれから26年。まもなく今年も彼女の命日となった6月6日が訪れる。たぶん局内では追悼のために黙とうや何らかの供養は行うであろうが、このようなことは二度と起こってはならないし、風化させてはならないと考え、あえてここで取り上げました。

 謹んで彼女のご冥福をお祈りしたいと思います。

  なお、余談になるが、あと4年後に、令和6年6月6日と6並びの日が再びやって来るが、奇しくも彼女が天国に旅立って、ちょうど30年という節目にあたることになる。「ラジオ福島」のリスナーの方なら、彼女が確かに「ラジオ福島」のアナウンサーとして活躍していた時期があったことをどうか心に留めておいてほしい。彼女のアナウンサーとしての生き様は福島県民にしか知り得ないし、語れないからだ。ずっと忘れないでいること、それが彼女の一番の供養になると思うからだ。

 話を変えるが、「ラジオ福島」に関する個人的なことでは、中学生の頃、郡山市民会館(麓山)で行われたRFCの公開録音のイベントに友達と行って、景品が当たるくじ引きがあって、たまたま私の番号がアナウンスされて、ステージ下まで景品を引き換えに行ったことがあった。その時のアナウンサーの名前はわからないが、男性アナウンサーが、私の服装(Tシャツに野球帽)を克明に伝えていた。客は100人もいなかったが、恥ずかしい感情しかなかった。貰ったのはたぶんマグカップか何かだったと思う。そんな出来事もあったことをふと思い出した。 


 さて、今日は「ラジオ福島」の懐かしい番組を自分なりの感慨を込めてお送りしました。私とラジオの関わりや結びつきはことのほか強いことを今更ながら実感した次第だ。ここ郡山には、その後、「ふくしまFM」が開局したり、「ココラジ」なるコミュニティFMも開局して、リスナーの選択の幅が広がったが、私は常に車のラジオは「ラジオ福島」にロックオンしてある。自宅ではCDラジカセを持っていないので、聴かなくなったが、時々スマホの「radiko」で聴いている番組があるし、「どがらじ」で録音している番組がある。特に15分程度だが、朝夕の車での通勤には欠かせない。
 もう半世紀近くも慣れ親しんだ放送局で、番組のコンセプトなども熟知している私にとって、安心して視聴できる唯一のラジオ局だ。これからも県民に寄り添う放送局であってほしいと願い、結びとしたい。

  RFCラジオ福島の「菅原美智子」アナによる「クロージングアナウンス

« 福島県民が二度と行けない場所 | トップページ | 残念な自分脱却計画 ~文学作品で教養アップ編~ »

映画・テレビ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 福島県民が二度と行けない場所 | トップページ | 残念な自分脱却計画 ~文学作品で教養アップ編~ »