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2020年2月17日 (月)

かつて郡山に実在した映画館

 戦後間もない頃は、庶民の娯楽と言えば「映画」だった。戦後復興のシンボルとして、美しい女優さんや上原謙や赤木圭一郎、石原裕次郎、そして美空ひばりなどの銀幕のスターに憧れ、あるいは恋い焦がれて活気を取り戻したのは言うまでもない。かつて、プロ野球の球団のオーナーが映画会社だったことを考えれば、その隆盛ぶりは窺い知ることが出来るだろう。

 我が街、郡山もまたその例に漏れず、相当スクリーン映画が持て囃されていたようだ。それが証拠に、昭和の時代には数多くの映画館が存在した。その数、常時20劇場以上が点在していた。
 ではここから先は、「おはようドミンゴ」さんの「ふくしま映画100年昭和編 戦後シネマパラダイス」のブログからから引用および抜粋させていただき、その後、自分なりのコメントを添えたい。

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 郡山には最古の清水座や、明治32年創立の共楽座という館があったほか、平和館富士館が大正9年に開館、大正座などがあり、共楽座が大正6年にみどり座と改名したほか、昭和6年になってみどり座の隣に郡山会館(火事で焼失したため昭和16年郡山映画劇場となる)が出来、新興館も産まれたがこれは昭和20年に強制疎開で壊された。

 隣接の町には大槻共楽座、大正5年開館の熱海座日和田座(のち日之出座)や、戦後の永盛映画劇場(無許可のバラック館で雨漏りした)などが最盛期に活躍していた。

 郡山の大正座は明治44年生まれで郡盛舘文芸館大勝館と名を変えて生き延びた。ほかに名前を拾ってゆくと戦後は日劇テアトル郡山ニュー東宝ピカデリーなどや、P.I.C.シスター地下シスター松竹ニュース館駅前東映ピッコロ座ロマンス座セントラル駅前東宝駅前ロマン駅前スカラなどがあったが、今日ではすべてアートパレスとテアトルの二系列シネマコンプレックス館に統合。
戦後、郡山駅前には中劇清水座富士館の三館があるだけで、堂前には郡映のみだった。ファンの要望で、みどり座が映画館に再生した経緯がる。
 後にはテアトル(東宝)、駅前東映、日活、郡山日本劇場(日劇)、郡山東映パラス、大勝館、シスター、郡山東洋劇場など10館が繚乱の営業を展開する。

 昭和26年3月15日の民報記事中に県内の映画館経営者の紹介もあり、特に郡山の佐藤勝治氏の経歴がある。佐藤氏は郡山みどり座が芝居小屋だったのを昭和8年から映画に手を染め12年に郡映の前身郡山会館を新築。白河みどり座、郡山新興館を買収。火災の厄に遭った郡山会館の跡に郡山映画劇場を新築。戦後はみどり座を改装して洋画専門館に、ついでピッコロ座を創設、ロマンス座を新築し宿願の中央劇場を建設。県下の業界をリードした。ロマンス座は昭和25年8月1日に米欧特選番組で開館。昭和27年時点の映画年鑑は次の館を記載している。

Ekimae1

みどり座  エミネツクス 小野研
800 大 堤下12 佐藤勝治 小原磯助

ロマンス座 ニッセイ ローラー
230 洋混 同 佐藤勝治民井一弥

郡山映画劇場 エネミックス 小野研
600 松洋混 同 佐藤勝治 後藤武四郎

富士館   エネミックス エネミックス600 宝映 柳町95 東和興行 斎藤二一

中央劇場  ローヤルL型 ローヤル
1200 混 清水台 佐藤勝治 菅野恭雄(鉄筋)

清水座 ローヤルL型 KKK式 408 新・洋混 柳内198 伊藤祐治 柏木正治
昭和27年11月28日民報「東北随一の文化センター中央劇場本日落成開館」(郡山市佐藤興行社)広告。

●みどり座の常設化
昭和29年8月4日「みどり座・常設映画館へ」という記事がある。
〔郡山駅前には中劇・清水座・冨士館の三館があるのに比べ、市内堂前方部には現在郡映が一館あるだけで同方部のファンからみどり座を映画館として再開してくれという声が強いので去る七月末佐藤興行社が場内の改装工事を急いで〕二番館としてオープンした。

●大映清水座と郡山テアトル
昭和30年4月に郡山大映清水座が大映直営館として開館。
昭和31年には福島テアトルの姉妹館として「郡山テアトル」が8月12日開館した。県都の映画館誕生ラッシュに歩調を合わせて郡山での映画館競争も熱い火花をちらしていたが、明治44年に開館した大正座は改装して映画専用上映館にしようとしたが、地主からクレームが出て建築工事がストツプした(昭和31年10月15日民報)という。

●大勝館
しかし同年末・突貫工事(福島市大森安藤工務店施工)で11月22日には新装なった大勝館が開館をはたすことができた。シネマスコープ「愛欲と戦場」「豪族の砦」の洋画を大人80円・学生70円・小人50円で特別上映した(民友12月11日)。合名会社清水座代表社員柏木正治と東和興業株式会社斎藤信雄の連名で開館挨拶が民友12月17日号に掲載されている。昭和33年9月4日民報〔市民会館の映写設備にケチ。客が減ってしまう。人口一万に八館が赤字。須賀川四館に二館、白河三館に二館が赤字〕郡山十一館だという。
昭和34年2月10日民報夕刊〔ついに六本立の映画館・郡山っ子のどぎも抜く〕

●郡山日本劇場
昭和35年3月28日民報夕刊〔4月1日から開館郡山日本劇場〕3月31日〔県下一の大スクリーン郡山日本劇場〕4月1日夕刊〔郡山十一番目の館に さくら通り入口〕

●ニュース館とニュー東映
同年5月20日「地下シスター松竹ニュース館大人100円学生80円」の記事。
昭和36年4月24日民報〔ニュー東映誕生 ニュー東映上映劇場〕の記事に〔郡山松竹改
め郡山ニュー東宝〕とある。
昭和36年10月下旬号のキネ旬に、郡山東映富士館の消息が載っている。〔去る七月八月(日)に閉館した、郡山市柳町九五の「郡山東映富士館」(経営者斎藤信雄氏)は、経営者を大野冨蔵氏に変更して、九月二六日に再開した。支配人は荒川義昭氏。〕また同年10月、「ニュー東映直営劇場転向」というニュースで「キネ旬」は、〔郡山ニュー東映(東映地方封切館)十二月四週から〕と報じている。郡山の映画館群を昭和38年の時点で眺望すると、テアトル郡山(東宝系)、郡山映画劇場(松竹系)、駅前東映(東映系)、郡山日活劇場(日活系)・大映清水座(大映系)・日本劇場(東和系)、大勝館(東和系)、P.I.C.直営P.I.C.シスター、冨士館(東映系)、ロマンス座(日活系)など10館の名を運ねている。

●郡山映画劇場
「郡山映画劇場」は昭和52年に閉館した。同劇場は昭和16年、郡山市内では最初の映画館として建設された。建坪五百平方メートル、木造モルタル二階建てで床は総タイル張り、収容人員四百人。当時としてはモダンな作りで市民の話題をさらったという。あまりに立派なのでお客さんが入口でげたやぞうりをぬいで入って来たというエピソードがあるほど。昭和26年まで松竹映画を中心に上映「愛染かつら」「君の名は」など一世を風びした名作の時は何度も満員御礼の貼り紙を出したという。また郡山市で最初に洋画を上映した(昭和26年)のも同劇場。戦前、戦後を通じ経営者が何度か代わったが、昭和31年、東北第一興業の安達政雄社長(郡山駅前シネマビル経営者)が経営を引き受けた。安達社長は「若い人たちが安心して見られるような劇場にしたい」という信念から”いい映画”だけを上映した、テレビに人気を奪われた映画館がドン底にあった昭和38年ころ、もうかる成人映画の上映を友人から勧められたが、赤字覚悟で断固名作だけに絞って上映し続けた。市内の高校ではかつて高校生同士が映画館に入ることを禁止したことがあるが、郡映だけは許可したという。
52年正月、同劇場で上映した「岸壁の母」が爆発的な人気を呼び、40日間で35000人のお客が入つた。お客が入り過ぎたのが原因で劇場二階のハリが折れた。業者に修理を頼んだところ老朽化がひどいため周りの柱まで取り替えねばならず数千万円もの修理費がかかると言われたという。市内にあつた「みどり座」「清水座」「富士館」と往年の劇場が次々と姿を消し、安達社長は「郡映だけは残したい」と考えていたが、ハリが折れたのを機に廃止を決意。「岸壁の母」を最後に廃館とした。同社の従業員全員が同劇場で酒をくみ交わし廃館式を行い、思い出の劇場に別れを告げた。なお、郡映と一緒に隣のロマンス座も廃館となった。東北第一興業では52年11月、映画離れ対策として懸賞付き映画鑑賞を東宝、スカラ、ロマン、テアトル、ピカデリーの館で実施。

●東洋劇場
昭和41年10月に松竹専門館としてオープンし、経営者は五十嵐宏さん。7歳から映画界に入り下足番、売店の売り子などから支配人を経て念願の独立を果たした人物。
日活が直営館を探しはじめたのがきっかけとなって男子の後継者いなかったことから、53年7月いっぱいで閉館。経営権は日活に譲渡され、寅さんシリーズの上映などはシネマビルで上映を引き継いだ。

●郡山シネマビル
郡山シネマビル 駅前東宝・駅前ロマン・駅前スカラ
52年、鉄筋三階建てのビルの各階がすべて映画館というシネマビルが郡山駅前にもオープン。シネマビルは郡山市内の映画館の半分にあたるテアトル郡山、郡山ピカデリー、郡山映画劇場、郡山ロマンス座の四館を経営する東北第一興業社長安達政雄さん(40)が総工費一億一千万円をかけて建設したもので、鉄筋三階建て延べ七百五十平方メートル、百三十席から百八十席の映画館が三館出来た。
一階が邦画専門館の「駅前東宝」二階が西部劇、ギャング、戦争物の洋画アクション専門の「駅前スカラ座」三階が洋画の異色作を上映する「駅前ロマン」となっている。同ビルの特長は東北地方では初めてという自動映写装置を導入、三館を一人の映写技師が坦当しているほか、三館内に十三台のモニターテレビを設置しコントロール・センターで集中的に監視するなどで、人件費節約の関係で大幅な機械化を導入している。オープン初日は土曜日とあって朝から多くの人が訪れ、日中だけで二千人を超す観客が詰めかけた。なおシネマビルの誕生は県内ではいわき市に次いで二番目。
昭和63年(1988)の郡山の映画館は次のとおり。12館あった。
郡山東映、パレス郡山、にっかつ劇場、郡山スカラ座、郡山東宝、郡山ロマン、郡山駅前パレス、郡山パレス1、テアトル郡山、郡山大勝館、郡山洋画パレス、郡山洋画ピカデリー
このうち翌年1989年(平成元年)11月26日には、ピカデリーが廃館となり11館に減少。同年12月1目の映画年鑑90年版では「ロッポニカ郡山」が載って12館に。91年から93年にかけては10館体制で94年の年鑑ではさらに郡山パレス2が欠落して9館に。
安積郡の映画館

●永盛 昭和18年1月21日民報「安積郡永盛町 永盛映画劇場」の記事がある。田村郡守山町にあった旧陸軍が木工場として使用していたものを終戦と同時に財務局福島支部が管理し、24年暮に永盛町の横堀捨松さんが五万円で払い下げを受け、さらに同町の三本松寺市さんが借り受けて月に二度ほど映画館として上映。百坪ほどの大きさで土間に筵を敷いて百席ほどの客席だったが、屋根の木端板がひどくいたんで雨が洩るため映画を中断した。

●磐梯熱海 熱海座。所在地から樋の口劇場とも呼ばれた。樋の口映画劇場の名が新聞に出ている。

●湖南 福良会館。昭和44年の全国映画館名簿に安積郡唯一の館として記載されている。
福良会館 邦洋 阿部義一 ホープ・三共 280席。

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 さて、当時の庶民がこんなにも映画に傾倒していたのかと驚きを隠せない。郡山市内だけでざっと20以上もの映画館がひしめき合っていた。確かに私の記憶では、駅前のアーケード周辺だけでも5つはあった。富士館ビル内にあった郡山東宝は、ゴジラやガメラなどを上映していて、小学生に大人気だったし、駅西口の真正面にあった「大映パレス」やアーケード南側入口横にあった「松竹」などでは、私が映画を見た記憶がある。ほかにもポルノ映画の殿堂だった「大勝館」(2009年11月閉館)もあった。看板がエロすぎて、小中学生の頃は目のやり場に困った。その北西側には「洋画パレス」(後にテアトル5/2011年4月閉館)があったし、清水台の八幡坂には地下に「郡山ピカデリー」があった。中1の頃、そこで「スターウォーズ」の初回作品を見て、あの大音響とCGを駆使した特殊映像技術に圧倒された想い出がある。超満員で立ち見していた記憶がある。

 また、堂前にはほっ立て小屋風の郡山映画劇場(郡映)があり、小6の頃、同級生たちと「キングコング」を見た記憶がある。

 駅前の「大映」では「ハイティーンブギ」「嵐を呼ぶ男」を見たし、20代には彼女と「波の数だけ抱きしめて」を観に行った。私にとっても映画は幼少の頃から身近な存在だった。

 他にも駅前には「東映パレス」「スカラ座」「パレス1・2」などがあったし、堤下には「アートパレス」があった。

 残念ながら、テレビが普及し始めた昭和40年代頃から、映画業界は衰退の一途をたどった。現在、郡山で生き残っている映画館は、市内駅前にあるテアトルくらいで、一人勝ちの様相を呈している。

 さて、郡山市在住の方は、かつて昭和の時代に、このような数多くの映画館が存在していたことを知る方は、還暦以上の先輩諸氏になっていると思う。少しでも昔のことを懐かしく思い出していただけたら幸いです。

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