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2020年1月26日 (日)

世界中で愛された日本人

日本人には認知度が低くても、世界各地で崇められている日本人がいる。「世界びっくりニュース」や「世界なぜそこに日本人」などのテレビ番組でそういった方々を取り上げ、その功績を紹介するものがある。古くは「黄熱病」の研究に一生を捧げ、現地で命果てた「野口英世博士」がいる。
 今回は、あまり知られていないが、野口博士のように世界各国で「英雄」として扱われ、現地の方々に愛された日本人について取り上げたい。

 1 八田與一(はったよいち)(金沢ふるさと偉人館の記事より引用)

 八田與一は、台湾で不毛の大地と呼ばれていた嘉南(かなん)平原に、堰堤長1,273mという当時では東洋一の規模である「烏山頭(うさんとう)ダム」と、総延長16,000kmにおよぶ給排水路を完成させました。その成果によって、嘉南平原は台湾一の穀倉地帯となりました。
 台湾では、このダムと給排水路をあわせて「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」と呼んでおり、與一は「嘉南大圳の父」として、現在でも台湾で多くの人々に慕われ続けています。

 2 杉原千畝 ユダヤ人を虐殺から救う

 第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ドイツの迫害によりポーランドなど欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。1940年7月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して大量のビザ(通過査証)を発給し、避難民を救ったことで知られる。その避難民の多くがユダヤ人系であった。「東洋のシンドラー」などとも呼ばれる。

 3 加藤明 元ペルー女子バレーボール監督(News ポストセブン記事より引用))

 加藤は大学の先輩だった松平康隆(元日本男子バレーボール監督)を通じてペルー政府から依頼を受け、ペルー女子代表の監督を引き受けた。自らペルー中を回って才能のある選手をスカウトし、世界に通用させるために厳しい練習を課した。あまりのスパルタぶりに、音をあげて逃げ出す選手が続出。ペルーの新聞には「野蛮な国から来た野蛮な監督」と非難されたこともあった。
 だが加藤はペルーの言葉や食べ物、生活習慣、文化を吸収してペルー人の心を理解しようと努め、練習だけではなく精神面や生活面も指導。選手たちとの距離を縮めていった。たびたび選手たちと食卓を囲み、坂本九の『上を向いて歩こう』などの歌を、得意のギターを弾いて一緒に歌っていたという。
 そんな加藤の熱意が伝わり、選手たちは加藤を父のように慕うようになる。激しい練習にも取り組み、チームは力をつけていった。1967年に任期が切れ日本へ帰国することになっていたが、空港で別れを惜しむ加藤と選手たちの姿が新聞で報じられると、「そこまで選手に慕われているのなら」と、さらに1年間の延長が認められた。ペルーチームはその後大躍進を遂げる。
 「加藤さんはペルーチームを、就任から3年後の1968年メキシコオリンピックで4位入賞に導き、世界を驚かせました。もちろん一番驚いたのはペルー国民です。弱小といわれた自国チームが強豪国を次々に破っていく姿は非常に痛快だったそうで、今も鮮明に覚えているという話を現地で聞きました」(井原氏)
 しかしその直後、加藤を病魔が襲う。ウイルス性肝炎に倒れ、10年以上の闘病生活の末、1982年にリマ市内の病院で夭逝した(享年49)。死の翌日、ペルーの新聞各紙が「ペルーは泣いている」との見出しで大きく報じた。リマでは教会の鐘が打ち鳴らされ、弔意を表わす車のクラクションが一晩中鳴りやまなかった。
 葬儀には5万人のペルー国民が参列し、当時のベラウンデ大統領が弔辞を寄せた。かつての教え子たちは彼との思い出の曲『上を向いて歩こう』を泣きながら合唱した。


 4 六氏(六士)先生

 六士先生は、日本統治時代の台湾に設立された小学校、芝山巌学堂(しざんがんがくどう)で抗日事件により殺害された日本人教師6人のことである。
 台湾を統治し始めた日本政府は、まずインフラの整備に取り組み、鉱山の開発や鉄道の建設、衛生環境の改善や農林水産業の近代化などの政策を推し進めました。同時に日本語の普及にも取り組み、その指導のため多くの志ある人が台湾に渡りました。
のちに「六氏先生」と呼ばれる6人の教師(楫取素彦、関口長太郎、中島長吉、桂金太郎、井原順之助、平井数馬)はその先駆けとなった人たちで、初代台湾総督府学務部長・伊沢修二の求めに応じて渡台し、1895年7月から芝山巌学堂で日本語を教えていました。
 生徒6人から始まった小さな学校は徐々に生徒数を増やし、周辺住民にも受け入れられていきましたが、その年の暮れになると暴動が頻発し、治安が悪化します。心配した人々は彼らに避難を勧めましたが、『死して余栄あり、実に死に甲斐あり』と教育に殉じる覚悟で拒み、その場に残りました。
 そして1896年1月1日、ついに悲劇が起こります。元旦の拝賀式に出席するため、芝山巌を出た一行に約100人の抗日ゲリラが襲い掛かり、6人の教師と用務員の小林清吉の計7人が惨殺され、非業の死を遂げます。井沢と教師の山田耕造が日本に一時帰国した間の出来事でした。

 5 西岡京治

 親日国であるブータンでも、最も愛された日本人といえば、西岡京治氏です。
後に「ブータン農業の父」と呼ばれた人で、ブータンでは「ダショー・ニシオカ」と呼ばれています。「ダショー」とは国に大きな功績を納めた人だけに授けられる称号で、「最高に優れた人」という意味を持ちます。
彼は、海外技術協力事業団(現在のJICA)で、国土のほとんどが山谷ばかりという、農業環境が極めて悪いブータンに技術を指導するために海を渡りました。もともとの任期は2年でしたがその後も指導を続け、28年もの間、ブータンの農業技術向上に尽くしました。
 ブータン政府の要請を受けてパロにやって来た当初は、現地の人の冷たい態度を受けたこともあったそうです。ですが持ち前の根気と忍耐力を発揮して、畑の耕し方、種のまき方、道具や機械の使い方などを丁寧に教えていくと、やがて農業効率は上がり、野菜やお米などで大きな収穫を得ました。
 それだけでなく、水路や道路を整備して、人々の暮らしを劇的に変えるという町おこしまでやってのけたのです。その熱意と功績から、村人からの信頼や感謝に留まらず、ブータン国民に繁栄をもたらした日本人として認められ、第4代ブータン国王からダショーの称号を与えられました。
 1992年3月26日に西岡氏がブータンで亡くなると、葬儀には5000人もの人々が訪れ、大勢の僧侶による読経が止むことなく続きました。それほどブータンの国の人々に愛された人だったのです。


 6 中村哲


 1983年からパキスタンでの医療活動から始まり、隣国アフガニスタンで農業用水路の建設などによる復興に携わってきたNGO「ペシャワール会」(事務局・福岡)の現地代表の医師、中村哲が2019年12月4日、アフガニスタン東部で車で作業場への移動中に銃撃され、亡くなった。国内外に衝撃が走った。

 

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