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2019年12月14日 (土)

郡山に纏わる偉人伝説ミステリー

 この記事は、郡山に生を受けた私が、大学の4年間と若い頃に会津(1年)といわき(4年)に住んだ以外、あしかけ46年間も郡山に居を構えていながら、まだまだ地元に関して知らないことだらけなのを懸念して、調査がてら故郷をもっと知るために記載するものである。
 同じ境遇の方も、郡山のことをもっと知って欲しいという意図からアップしますので、ぜひ私と一緒に勉強のつもりでご覧ください。

 ミステリー1 「坂上田村麻呂は郡山で生まれた?」

 11月29日付の朝日新聞の福島版に興味深い記事が掲載されていた。それは初代征夷大将軍として奥州征伐で名を馳せた「坂上田村麻呂」の生
誕の地が郡山市田村町であるというものだ。眉唾でないことを願うが、その根拠として田村麻呂の母親・阿口陀媛を祀った神社(谷地権現)が、日大工学部の南側の田村町徳定字泉田付近にあること。そして地元には田村麻呂に関する言い伝えが多数あることなどが根拠にあるようだ。


 何せ生誕が758年と今から1260年以上も前のことであるため真偽のほどは確かめようがないが、地元にはそれを裏付けるかのように
「坂上田村麻呂生誕の地」なる石碑まで建っている。そして誕生後、産湯をつかったとされる「産清水」という湧水とその池まである。

 さらには、京都・清水寺にしかないと思われていた「坂上田村麻呂」の像が同町の山中地区の田村神社にもあることで信憑性が増している。
この「田村神社」は歴史にちょくちょく登場する由緒ある神社で、あの俳人・松尾芭蕉も「奥の細道」の道中に曾良を伴い訪れている。
 ところで伝記によれば、坂上田村麻呂は身長176cm、体重120キロもあったという大男で、目は鷹のように鋭く、怒ると猛獣をも倒す
が、笑うと赤ん坊がよくなつくと伝えられている。

 画像 https://machique.st/spots/52624

 こうした伝承や田村麻呂の功績を讃え、受け継いで建立したもので、よもや地元の町おこしの一端としてでっちあげた話などではあるまい。

 ミステリー2 「静御前の終焉の地が郡山市?」

 静御前と言えば平安末期から鎌倉時代に登場した源義経の妾で、絶世の美女と誰もが認識している人物だ。平家を滅ぼした最大の功労者であ
る義経を疎ましく思い、なおかつ脅威に感じた兄・頼朝は義経討伐を命じた。義経との子を身ごもった静御前に対し、男子なら殺せと命じた。
やがて男子が生まれ、無理やり取り上げられた生まれたばかりの男の子は由比ガ浜に沈められた。
 悲しみに暮れる御前だったが、命からがら奥州・平泉に落ち延びた義経を追って旅に出たが、途中の郡山に滞在中に義経が討たれたとの訃報
を知り、悲観した静御前が郡山市大槻町にある池に身を投げて亡くなった。その池は「美女池」と呼ばれ、郡山免許センターの向かい側にある。

Bijyoike

 今は郡山市の町おこしの切り札として、その池では盛んに鯉の養殖を行っている。
 お姫様が心中して亡くなったことを哀れに思った地元の農民が亡骸を近くのお堂にお祀りしたという言い伝えがある。そのお堂こそ「静御前
堂」という名称がつけられている。
 この話、どこまで真実かは不明だが、歴史浪漫を感じ魅かれるものがある。しかし、静御前の終焉に纏わる伝説は全国に諸説あり、また墓所
も複数存在する。
 静御前自身が身元や素性がバレないような隠密行動での旅だったので、後でわかって、尾ひれがついたり、脚色されていったのではないだろ
うか。
 もちろん地元の人間にしてみたら、これこそ真実であってほしいと願うばかりだが、謎は謎のままで真実を解き明かさないほうが良いような
気がする。

 ミステリー3 「なぜ富田町音路には聖徳太子を祀った太子堂があるのか?」

 まず「音路太子堂」について

 聖徳太子が祀られているお堂で、鎌倉時代に造られたとされる石造りの六重塔、郡山市指定文化財となっている古い供養塔などがあります。
毎年7月26日の太子の縁日には、悪疫退散を祈願する三匹獅子舞が奉納されます。400年の歴史を持つ、三人の子どもによって行われる獅子舞で、「音路の獅子舞」として郡山市指定重要無形文化財となっています。
 1857年(安政4年)に書かれた「太子堂縁起」によると、平安時代中期に三十六歌仙の一人、源重之がこの地に立ち寄った際に聖徳太子像を
彫り、祭ったのが起源とされている。
 その後、戦国時代に戦火で焼失し、獅子舞も一度は途絶えるが、1643年(寛永20年)頃、快安和尚が焼けた太子堂を再建し、合わせて獅子舞を復活させたと伝わる。

Otorotaisido

 1958年(昭和33年)、獅子舞が郡山市の重要無形民俗文化財に、また、鎌倉時代に築かれた石造六重層塔や石造塔婆が同市指定の重要文化財に指定された。
 
 この記載から推察するに、西暦600年頃、推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、遣隋使を派遣した聖徳太子が実際にこの地を
訪れて何かしたわけではなく、聖徳太子が存在していたとされる時代とは遥かけ離れた平安時代に、たまたま立ち寄った歌人が聖徳太子の像を
彫ってお堂に建立したことでその名が付けられたとされている。
 日本ではその後も、昭和の時代に5千円札と1万円札の肖像画に使われるなど、まるで神であるかのように扱われてきた。「冠位十二階」や
「十七条の憲法」の制定に注力したその威光は、1500年後の現代にも光彩を放っているということになる。

 
 4 虎丸長者というが、それほど金持ちだったのは一体誰のこと?

 「こおりやま街なか遺産」というサイトにその手掛かりがあった。詳しくはわかっていないが、虎丸長者は郡山のあちこちに屋敷を構え、豪
勢さを誇っていました。力持という所には米倉を造り、現在の清水台、商工会議所周辺にあった皿沼で下女が皿を洗っていたと伝えられている。
 また、堂前、阿知にある如宝寺は、虎丸長者が馬頭観音を安置し、堂字を建立したのがはじまりといわれ、「旭さし。夕日輝くところ。黄金千杯あり」という碑の存在から、埋蔵金があるのではと騒がれたこともあったらしい。
 しかし、その後、新たな史実が発見されることとなった。それは、郡山商工会議所から赤木小学校周辺の商店街の範囲に清水台移籍が発見さ
れたのです。この遺跡からは当時、寺院や役所などの貴重な建物にしか使われなかった土器や瓦が出土した。よってこの清水台移籍は「郡衛」
と呼ばれる役所跡で、ここを中心に栄えていったと考えられるようになった。虎丸長者の屋敷跡といわれた周辺は、実は安積地方の郡役所だっ
たというのだ。

Toramaruchojya  

 昭和の時代は、郡山駅から内環状線あたりまでの一帯は、大地主だった「津野一族」が牛耳っていたため、私はてっきり虎丸長者=津野一族
の祖先のことを指すと思い込んでいた。私の小中の先輩も津野一族の末裔で、やはり虎丸町に住んでいたが、やはり中心市街地の一等地にとん
でもないお屋敷を構えていた。そしてその娘は超美人だった。
 

 5 戦国武将「伊達政宗」は郡山で戦をしたのか?

 郡山には謎が多くあって、そのひとつが「郡山城」に所在はどこか?というのがある。実際には天守閣やお濠、石垣などを備えたお城では
なく、お城とは呼べないような貧相な陣屋や関所のような佇まいだったようだが。
 一説によると、今の若葉町のうねめ通り沿いの急坂の北側にあったのではないかと言われている。ここに奥州統一を目指した戦国武将の
伊達政宗がその周辺に陣を張って、攻略を試みたというのが残る。また、今の陣屋にもその所在を証明するように石碑が建つため、専門的に
研究している学者もいないため、どちらとも判断がつかずに今日に至っている。

Koriyama-castle

 では伊達政宗は、隣の本宮界隈の人取橋でおおがかりな戦を展開したり、二本松周辺の諸城にて相当な戦を行ったのは事実だ。実父・輝宗
を二本松藩主だった畠山義継に拉致され非業の死を遂げたことをきっかけに、復讐心に燃え、小手森城800人なで斬りなど容赦ない殺戮を
展開した。 また、本宮の小高い神社に陣を張り、好機をうかがったのも事実である。では郡山市で戦を実際に行ったかどうかだ。すると答えはYESだっ
た。「郡山合戦」というのが史実として今に残っている。

 天正16年(1588年)2月から7月にかけての、安積郡郡山城・窪田城一帯をめぐる伊達政宗軍と蘆名義広・相馬義胤連合軍との一連の戦闘を
指す。
 同年5月22日に政宗は自ら兵を率いて小手森城の攻撃を開始したが天候の悪化により一旦大森城に退いた。ところが、閏5月12日、相馬義胤は田村清顕(政宗岳父・妻は義胤叔母)没後伊達派と相馬派に分かれて紛糾していた田村氏の所領を確保して、小手森城と蘆名勢の後詰めをするべく、自ら三春城へと向かったが、田村家中の伊達派・橋本顕徳らに阻まれて入城を果たせずに退去した。相馬勢の撤退を承け、政宗は宮森城に陣を構えて再び小手森城攻略に乗り出した。閏5月16日に小手森城は陥落し、石川光昌は相馬領へと逃れていった。17日には大倉城、18日には月山、百目木、石沢の諸城が陥落する。19日には船引城から義胤が退去し、東安達方面における相馬方の戦線は崩壊。苦境に立った義胤は佐竹義重・蘆名義広・岩城常隆に救援を求めた。佐竹・蘆名の両氏は直ちにこれに応じるが、田村清顕の存命中から田村領に侵攻していた常隆は義胤の三春入城に異を唱えて援軍を拒否した。田村領が伊達氏・相馬氏・岩城氏による三つ巴の対象になっていたことがこの戦いを複雑なものにした。
 6月に入ると佐竹、蘆名連合軍が郡山方面に向かって兵を進めた。これは宮森城に近い本宮方面への侵攻を予想していた政宗の思惑を裏切るも
のであったが、政宗も郡山の救援に向かうべく、宮森城を出て本宮から郡山に向かった。また、田村氏からも田村月斎・田村梅雪斎が援軍とし
て駆けつけて、伊達氏の一門である留守政景も14日に援軍に駆けつけている。
 6月12日、郡山・窪田両城に向けて兵を進めた連合軍と伊達勢が対峙して互いに砦を築き、以降40日間にわたって延々小競り合いを繰り返し
た。政宗記によれば連合軍は約八千騎、伊達勢は約六百騎、貞山公治家記録には連合軍約四千騎、伊達勢約六百騎と兵数で伊達軍は圧倒的に不
利であった。伊達勢は伊達成実が政宗の命により山王山を陣所とする。「堀を掘、土手を築、如要害構へ」られた成実陣所を連合軍は落とすこ
とができなかった。その上、阿武隈川沿いの篠川城が伊達側にあり、連合軍は背後に敵勢力を置いた状況で伊達勢と対峙せねばならなかった。
 また昼夜止むことなく互いに四、五千発の鉄砲を撃ちあう激しい銃撃戦が行われたという。7月4日、窪田を守っていた片倉景綱・伊達成実の
前方を蘆名方、新国貞通の部隊が通過した。景綱弟の片倉藤左衛門に新国を追わせたところ、深追いして蘆名軍に囲まれた。景綱、成実はこれ
を救うべく戦闘したが、引き上げに苦戦した。伊東重信が討死にするも、 反撃に転じ五十余人を討ち取って引き上げた。両軍共に大規模な攻
勢を仕掛けられなかった理由としては、伊達方からすれば寡兵であること、大崎・最上勢の進軍が停止し和睦交渉が始まったとはいえ、伊達領
北方では依然として予断を許さぬ状況が続いており、また大崎合戦敗北による痛手も癒えておらず、積極的攻勢に打って出られるような状態に
は無く、一方の蘆名方も、頼みの佐竹義重が豊臣秀吉から再三にわたり、前年12月の惣無事令に則して子・義広と甥・政宗とを速やかに和睦さ
せるよう督促されており、公然と自らが兵を進めて政宗を討つわけにもいかず、様子見を続けざるを得なかったため、同様に決戦能力を欠いて
いたことが挙げられる。惣無事令の影響について小林清治は一時的に一定の影響を与えながらも、基本的には対立、対決の動きを抑制するには
無効であったとする。また戸谷穂高は惣無事令の往来の見解に疑問を提示したうえで、豊臣政権による積極的な調停は一部に限定されていたと
し、郡山合戦への影響を認めない。一方、城郭研究の松岡進は、普請と作事が一体化した簡易な遮断施設が野戦築城として広く活用されていた
事実に注目する。郡山合戦は伊達方の郡山城をめぐって伊達軍と連合軍が対陣し、相互に陣地を形成するなどしたため、長期戦の様相を呈して
いたと整理できる。
  7月2日、岩城常隆が石川昭光を誘って政宗に和議の仲介を打診した。5日から弓鉄砲は止められた。交渉は蘆名氏との所領の画定で難航した
ものの、7月16日には先に合意に達した佐竹氏と伊達氏の和議が、2日後には蘆名氏と伊達氏の和議が成立して佐竹氏もこれを確認、21日になって両軍とも撤退した。


 さて、歴史上の有名な人物たちがここ郡山の地でその足跡を残したことは言うまでもない。中には真実か否か疑問符がつくものもあるが、自分が住んでいる場所でそのような大きな出来事があったことを学習してもいいのではないか?郡山には謎の場所がまだまだある。
 平成に入ってから発見された大安場古墳の謎(一体誰の墓なのか)もあるし、浄土松公園のきのこ岩はどうやって誕生したのか?はたまた郡山市西田地区にある「ペグマタイト岩脈」とは何もの?なぜ岩盤が硬くて地震に強いのかなど。探れば興味深い謎だらけだ。
 また、郡山市民の夏の風物詩「うねめ祭り」に纏わる采女とは誰?そして磐梯熱海町の「萩姫」とは一体誰でどんな人だったのか?など。好奇心だらけで興味はまだまだ尽きない。
 
 
  
 
 

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郡山の話題」カテゴリの記事

コメント

連日、お邪魔してます😊
長者の地名の由来、こちらに書いてあったのですね。
なるほどー、と唸ってしまいますね。。

皿沼も、単なる沼からプールになったり、埋め立てられてしまったり、、、
感慨深いものがありますね。

商工会議所の西側に『珈琲 さらぬま』がまだ営業していたころを思い出します。
建物もノスタルジックで素敵でしたね。。。
その昔、画家のアトリエとして建てられた頃当時の絵葉書を見たことがあります。
建物の手前まで皿沼の水面が迫っていて、おとぎ話の絵本のような景色でした。

歴史のある建物が、壊されることなく保存維持されたらいいですよね。
心配な建物がたくさんあって、無関係ながら気になって仕方ないです。

これからも、楽しみにしてます。

追記・・・今日は天気が良かったので、例の菅船神社方面の散策をしてきました。
 神社だらけで、ビックリです。
身震いするようなパワースポットですね(゚д゚)!
 そして、やっぱり(笑)誰もいませんでした。
 郡山、奥が深いですね!

・・・こんにちは。菅舩神社は、私が数年前に発掘して、以来、毎年4~5回は訪れているスポットです。でも今年はまだ一度も訪れていないので、もう少し暖かくなったら行くつもりです。あそこに行くと、妙に落ち着いて自分を取り戻せるし、気持ちをリセットできるので大好きな場所です。あの上り石段もさほど長くないし、たぶん、今の時期は、石段の中腹にある絵馬に受験の合格祈願を多数掛けられていることでしょうね。
 さて、エミーさんの依頼で、私も古い文献とか調べてみたのですが、堂前に対する堂後ではないものの、今でも阿武隈川沿いのR288バイパスの北側に富久山町堂坂堂後という地名が残っています。消防署の南側の堂前とは全く異なるようです。
 また水見台は現在の桜木2丁目付近で、当ブログでも書いた「郡山城」の在り処を巡る議論の場所のようですね。東京靴流通センターの西側です。そこは水見台遺跡があって、郡山市が調査していたようです。
 また、幕内町と相生町はどうやら今も残る会津若松市の地名らしく、郡山市の歴史の書籍を何冊か漁っても出ていなかったです。
 それより驚いたのは郡山駅の東側は、今でこそ「横塚」ですが、横塚と駅の間の一帯は「鶴巣」という地名だったことがわかりました。たぶん今はその地名が無いと思います。
 引き続き調査を続けたいと思います。(つん)

こんばんは(^-^)  
 そうなんです。合格祈願の絵馬が数枚、ひっそりと並んでいました。
ただでさえ人の気配がしない場所に、確かな現代人の痕跡(笑)にホッとしました。
奥にある奥行きのない小ぶりな急階段も、眩暈を感じながら登ってみたりして
異次元空間のような場所を満喫してきました。
山の井公園も、蓮の花が咲いている時期にもう一度行ってみようと思います。

早速、地名の件ありがとうございます。
そうなんですよね。駅の東側に鶴巣、鴻巣、などが古地図にはあるんですよね。
野鳥の繁殖に適した湖沼地帯でもあったのでしょうかね?

土塁跡が、水見台遺跡と呼ばれていたのですか。
なるほどなー確かに川を上から見おろす台地になりますものね。気になるのは、高架道路の準備?なのか、期待していいのか疑問につながるようなヤリカケ感・・いつになるのでしょうね。

相生町について、
以前、勤務先の社宅が清水台の北側の赤木にあって、歩いているときに大きな石柱でできた門のような物を見つけたのですが、何も無いところに そそり立っている違和感と刻まれた文字に「相生町」と彫られていたのです。
明治初期の古地図に「遊郭」と書いてある場所と一致したので何となく覚えていたのですが、廓の入り口? でも、相生町なんてどこにも記載がなくて、気になっていた場所です。
震災後、撤去されたようで、今現在はもう跡形もなくなってしまいました。
近くにあった橋本製糸の工場の外壁だった煉瓦塀も、個人的には好きだったのですが震災後、大部分が撤去されてしまい残念です。写真に残しておけばよかったと後悔してます。どんどん、無くなってしまいますね・・・

・・・エミーポンタンさん、コメントありがとうございます。赤木は数年前、ゴミ屋敷で全国にその名を轟かせてしまいましたが、私も石柱は気になって数年前に行ってみましたが、その模様は旧ブログで掲載しました。あそこには赤木遊郭というのが昔あって、「吉原」のような場所ではなくて、どちらかというと京都祇園のように、芸鼓さんと踊りや笛太鼓でお座敷遊びのようなことをする場だったようです。
 残念ながら石門(柱)は、震災で崩落し、今では礎石だけが残っています。その上に石柱が立っていました。
 こちらのブログに写真が載っていました→ http://kaido.the-orj.org/waki/mati.htm
 確かに相生町と記載があります。石柱には、「明治34年」とあったと言いますので、相当昔に存在した地名だと思います。
 語源では「相生」とは).2本以上の木が同じ根から生え出ていること。 特に相生の松。 転じて、夫婦が仲睦まじいこと。とあるので、
 その柱2本も関係あるのかも。でもやはり木々が生い茂っていた場所だったと見るのが正解でしょう。
 「郡山の歴史」の文献を読み漁っていますので、判明したらまた報告します。(つん)

こんばんは。。お忙しいのにヒントをくださって、ありがとうございます。

早速、ご紹介いただいたブログ閲覧しました。
きちんと、記録を残してる方がいて、こうして後から見ることができる。
幸せなことです(^-^)
遊郭の石柱だけでなく、製糸煉瓦塀のことも記載があり、時系列で写真まで載っており
驚きました。 この方のブログは「街道」に特化したもののようでしたが、宿場町だった黎明期の郡山の街の情報にも多岐に及び、枡形の話など大変興味深かったです。

それから、遊郭が吉原のようなものではなく、祇園のようなお座敷遊びの場に近いという話に内心、少し安堵いたしました。割と、大概の郡山の歴史資料などには宿場町の旅籠の飯盛り女を風紀上の理由で一か所に集めて・・・みたいな事ばかり書いてあり、その跡地に暮らす現代の市民にとっては、あまり喜ばしい話ではないですものね。

つんさんのブログは最近知ったので、ストックが沢山あって驚きますが
楽しみながら、少しづつ読み漁っていきたいと思ってますので
時々、コメントさせて頂きますね。。。

・・・・エミーさん、こんにちは。私が持っている「ふるさとの想い出写真集(明治大正昭和)」(昭和55年発刊)の資料によれば、「赤木遊郭」の建物の写真が載っていて、それによると、建物の外塀だけでも一辺が50mほどあって、かなり大きな屋敷だったことが見て取れます。
 その記載の説明によると、「江戸時代には飯盛女がいたが、明治5年10月の人身解き放し令で、娼妓廃止となったが、明治6年に貸座敷規制によって復活、明治34年に赤木に移転。郡山の歓楽地となって夜ごとに太鼓の音や絃歌が響いていた」とあります。裏ではどうなっていたのかまでは想像できませんが、表向きは「お座敷遊」びだったと考えられます。
 でも、麓山公園には「遊女の句」という石碑があったり、少し、意味深です。やはり時代が変わっても「男女」の愛憎みたいのは多少はあったかもしれませんね。あくまで憶測ですが。
 こうした郡山にちなんだ昔の話題は、すでに終了した旧ブログに数多く掲載してあります。おそらく「郡山の話題」というカテゴリーに100近くあるかもしれません。もしよかったら、そちらも目を通していただければ、補足説明があって、パズルのピースを嵌めるように、様々なことが判明していくと思います。(つん)
 参考までに「赤木遊郭」の当時の画像はコチラ→ http://tsuri-ten.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-360f.html

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