郡山の豆知識~建物の話~
いつのまにか変わってしまう故郷の景色。そこにあるのが当たり前だった建物が無くなったり、時代の波に流されて、あの「うすい百貨店」ですら劇的な変貌を遂げた。丸井、西武。ダイエー、丸光が鎬を削っていたのも今では遠い昔の出来事になった。
今日は、郡山の昔の建物に想いを馳せ、あの建造物はいつ建てられたのかについて焦点を絞って検証したい。
「SUN CITY」はいつから「S-PAL郡山」に?
「島崎和歌子」がアイドル時代にCMに起用されていた「サンシティ郡山」。駅の中に繋がるショッピングモールだ。それがいつのまにか東北地方に展開する「S-PAL」に変わっていた。「サンシティ」は、1982年7月15日に営業を開始した。
それが、2004年3月に名前が急に変わってしまった。恥ずかしいことに15年も経っているのに、知らなかった。郊外の住宅街に引っ越して20年以上が経つので、生まれ育った中心市街地の変遷に疎くなってしまったようだ。
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「ザベリオ学園」が大槻町に移転して「ホテルハマツ」になったのはいつだった?
「ホテルハマツ」は「ホテルオークラ」と資本提携して新築された。それが1991年(平成3年)だった。1999年開業の「うすい百貨店」と同様、郡山市には縁遠い「高級ホテル」志向のコンセプトで、敷居が高かったことで、客足が遠のき、2003年に負債240億円を抱え、民事再生法を申請し適用されるなど、一時期経営が傾き、危機的状況を迎えたが、なんとか持ち直している。
「さくら通り」沿いの一等地に幼稚園、小学校・中学校が併設されていたことも今考えると恐ろしい感じがする。実家から200mほどしか離れていなかったので、ここで私は何度か校庭で遊んだ記憶がある。私の小学校は市立のH小学校だったし、幼稚園も違う。
この「ホテルハマツ」だが、意外にも駅前大通りに建つ「ビューホテルアネックス」の開業と同じ年。郡山はもともと奥州街道の宿場町として栄えたが、これで一気にホテル建設に弾みがついた。「東横イン」や「アパホテル」、「α-1」、「ホテルプリシード」、「ホテルロイヤル」、「コンフォートホテル」、郊外には「ルートイン」などが開業したのだ。
一方では1994年にさくら通りと4号線の角に建っていた「サンルート郡山」が、2000年には熱海町の「磐光グランドホテル」が閉館した。
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フェスタ大観覧車はいつ設置された?
郡山市の北部に日和田という地名がある。そこに1996年(平成8年)にジャスコが開店し、富田・八山田地区が区画整理で住宅街へ大変身を遂げた。「JUSCO」は、今では「イオンフェスタ」(2011年)に店名を変えたが、同時に隣接する商業施設がオープンした。「ケーズデンキ」、「スポーツDEPO」、「イエローハット」、「ユニクロ」、「ブックオフ」などだ。その一角にあった、郡山市のラウンドマーク的な存在だった大観覧車が、惜しまれつつ一昨年に解体され、撤去された。
ではこの観覧車はいつ設置されたのかというと、2002年(平成14年)だ。つまり15年もの長きに渡り、郡山の強風とも戦いながら、市民のオアシスとして君臨し、老朽化のために解体となったのである。
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布引高原の風車群はいつできた?
夏は一面の「ひまわり畑」に埋め尽くされ、そして秋は秋桜畑。眼下には猪苗代湖を一望し、その先には雄大な「宝の山・磐梯山」を見下ろす絶好のロケーション。そして高原に立ち並ぶのが風力発電の風車。その数20基以上。実に雄大な風景がそこにある。
この布引高原は、2007年(平成19年)にオープンした。つまり12年前。比較的新しい観光名所だ。
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「ビッグアイ」と「ビッグパレットふくしま」はいつできた?
西口開発は地権者との交渉が折り合わず、難航に難航を重ねた。今の駅前が誕生したのは2001年(平成13年)で、その年に地上24階、高さ133mのビッグアイが竣工した。もう18年も経過しているとは・・・。商業施設だけでなく、県立高校が入っていたり、巨大な球体のプラネタリュウムなど複合施設となっている。
一方、ビッグパレットは正式には「福島県産業交流館」という名称で、巨大なコンベンションホールとなっている。郊外にあるため、駐車場が広くとれている。一時期、震災の被災者住宅団地と化していた。こちらは1998年10月に開館した。
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津野百貨店、丸光が閉店したのはいつ?
かつては郡山のデパートと言えば、「津野」「丸光」「うすい」だった。それが昭和51年頃から大都市圏の資本が入り、ダイエー、丸井、西友(のちの西武)が立て続けに駅前周辺にオープンした。
私は中学校の富士ヨット学生服は津野デパートで購入したし、丸光では地下の食品売り場でラーメンを食べたり、7Fのおもちゃ売り場、屋上の遊園地で遊んだ記憶がある。またうすいは第一と第二に分かれ、レストランでお子様ランチを食べたし、屋上のイベント広場では、スーパーカーの展示もやっていた。うすいはイベントだらけで、今でも北海道物産展や駅弁祭りなどを催しているが、かつては世界の爬虫類展なども行っていた。
丸光は仙台に本店があったが、1980年には撤退した。
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文化の発祥、「市民文化センター」と「ユラックス熱海」はいつできた?
合唱王国・郡山。安積女子高校の大偉業を讃え、「楽都」としての地位を確立して久しい。かつてはヤクザだらけで駅前で銃撃戦があったり、「東北のシカゴ」と呼ばれた物騒な時代があった。その汚名返上の意味合いもあって、「暴力追放都市」を宣言し、その見返りに「合唱」に力を注いだ。その先人たちの努力が実ったのだ。
そのきっかけは、今は無き「郡山市民会館」だった。麓山のNHKの西隣りにあった。今では麓山公園や中央図書館利用者の駐車場となっている。私は郡山市民会館には多くの想い出がある。「スター誕生」の公開録画を観に行き、ゲストの西城秀樹が歌った場面も目の当たりにしたし、「NHKのど自慢」では、榊原郁恵の「微笑日記」を聴いたし、高校時代には「谷村新司」のコンサートも観た。幼少の頃はゴジラやガメラの映画も見たし、RFCの公開録音では、くじに当たって記念品を貰ったこともあった。想い出が詰まった会館だった。
その郡山市民会館が老朽化し、代替地として300mほど東に下った旧専売公社跡地に建ったのが、現在の「郡山市民文化センター」だ。それは1984年(昭和59年)のことだった。姉がそこの職員だった際、浜田省吾の演奏をこっそり録音しテープを貰ったし、おニャン子クラブの高井麻巳子(現・秋元康夫人)のサインも貰ってくれた。
一方、磐梯熱海町の温泉街の一角に、1989年に誕生したのが温泉&温水プール付きのイベントホール「ユラックス熱海」だった。それまではその西隣りにあった1968年開業の「磐光パラダイス」と1971年開業の「磐光グランドホテル」が併設されていたが、営業不振で2000年(平成12年)に約30年の歴史に幕を下ろした。
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「郡山スケートセンター」って?
かつては郡山駅前に「郡山中央スケートリンク」があった。とても狭い屋内スケート場だった。階段を上がった2階が狭い通路で、そこが観覧席だった。
そして、その後、東部幹線と国道49号線の交差点の北東側、阿武隈沿いに巨大なスケート場がオープンした。それが1979年だった。私の後輩の本田武史選手がそこで練習し、その後、オリンピック選手となったのは語り草だ。その後、ゲームセンターゴーカート施設「アミューズパーク」やパターゴルフや釣り堀などになった。
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ほかにも市民のオアシス的な場所が相次いで無くなってしまった。例えば、「セントラルホール」(安積町荒井)、「郡山南ボウル」(長者)、「郡山レジャーセンター」(安積町笹川)、「やまのい」、「少年文化会館」(麓山)、「アーク・アメリカ村(朝日町)」、「BLUE HOUSE」などである。幼少の頃に遊んだ場所が無くなるのは本当に辛いものだ。
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